王政復古で打倒されたものは?

大掃除、きょうはいつもより少し余計に働いた。
先週さぼった窓ガラス拭きもやる。
洗濯物を干していると、セミがやかましく鳴いている。
ふと、八ヶ岳の朝を思いだした。
高原の朝が、こんなにも望ましく、こんなにも遠くなるとは思いもしなかった。
稲垣えみ子さんに、あれしたいこれしたい、と際限のない欲望の虜になることの愚かしさを教わったけれど、やはりあの高原の朝の空気を吸いたい。

永井路子「岩倉具視」読了。
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一台の馬車につけられた数頭の馬が、思い思いの方向に車を引張ろうとするように、一人一人が主役のつもりでひしめきあい傷つけあううちに、いつの間にか流れが変えられてゆく―そうした歴史というものを描くための一つの試みとして
「炎環」で直木賞を受賞した時に、後書きにこう書いて、
このテーマを抱えつづけて私は以後を生きてきた。
人生を終えようとするとき、その答の一部として、十九世紀後半を選んだ。
それが本書だ。
島津が馬どころか象の重さでのっしのっしと幕政に近づこうとする。
土佐の山内容堂も野心満々、一見豪快な英傑型だが懐が深く、複雑な動きを見せる怪物である。
彼らが、野心を胸に、協調すると見せかけて相手の引落しを企む駆引きは、まさに一台の馬車につけられた数頭の馬が、思い思いの方向に走りだそうとする光景そのものだ。(略)
この時期彼らがひどく生き生きと動き回るのは、「公武合体」の旗印のおかげである。何と口当たりのいい言葉か。一枚剝けばもやもやした現状糊塗なのだが、口にすれば何やら正義派めいて聞こえるではないか。
―俺たちは世の中にとって一番いいことをしている。
こんな塩梅だ。

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岩亀ともヤモリとも渾名された岩倉具視の大胆な行動がうまくいくと見えて、失敗に終わること幾たびか、その描写が滑稽で、つい「おお、トモちゃん、しょげるなよ」と肩を抱いてやりたくなるが、なあに、具視君の方がよっぽどしたたかだ。
洛北のあばら家の戸袋のスキマから、世界の情報を必死になって漁り、つぎつぎに警世の文書をものしては要所に送り届ける。

1966年12月25日、孝明天皇が急死する。
岩倉具視が暗殺したという説が行われ、それは現在も存在する近代史の謎だ。
永井は、いくつかの説を紹介しつつも、岩倉暗殺説を明快に否定する。
「毒殺」という言葉はこのころよく使われた中傷の手段だった。
毒殺したというのは、その頃の孝明天皇が攘夷に執着して邪魔だったなどという説があるが、永井に言わせれば、とうじの天皇は周囲の壁の言いなりになって、自らの意見を押し通す力のある存在ではなく、邪魔者にはなり得なかった。
むしろ岩倉具視は、近習として仕えて孝明天皇には敬愛の心をもっており、関白や摂政が「壁」として天皇の意志を活かさないことに反感を抱き、維新後も明治天皇のまわりに新しい「壁」が出来ることを危惧したのではないか、という。

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王政復古で打倒されたのは12世紀から始まった幕府だけでなく、いっしょに九世紀以来続いた千年の摂政・関白という制度も吹き飛ばされた。
これをやってのけたのが岩倉具視岩倉―。摂関という天皇を囲む固い壁に悩まされ続けてきた彼は、この機を捉えて、全身で「壁」を打ち破ったのである。
もし孝明天皇が生きていたら、こういう展開にはならなかっただろう。
そう考えると孝明の死はたしかに岩倉に幸いしている(暗殺説とは結び付かないが)、と永井。

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維新後のあれこれ、とりわけ岩倉具視の出世談を、エッセイ風に「余白に、、、」という章にまとめている。
軍国主義、専制政治への流れが印象深く予告される。
初めて読んだ永井路子、これまたもっと読みたくなった。

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by saheizi-inokori | 2023-07-22 13:05 | 今週の1冊、又は2・3冊 | Comments(0)

ホン、よしなしごと、食べ物、散歩・・


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