サッカーへのお誘い
2023年 07月 13日
長野高校は、僕が二年のときにサッカー部ができた。
苗字が出てこないけれど、「ミッキー」というニックネームの、はしっこい男が熱心に入部を誘った。
(昨日の散歩で、ずっとセミの鳴き声を聞いた。今年始めてか)
「影のナンバーワン」という東京朝高サッカー部を、1971年から16年にわたって育て上げたのが金明植(きむ・みょんしく)、この本は彼と東京朝高サッカー部の物語だ。
金明植は深川に生まれて、江東区の枝川という人工的に作られた朝鮮人部落に育った。
1936年の幻の東京五輪開催のために、深川の塩崎、浜園の浅瀬を埋め立てて、選手村を作ることになった。
そこで、そこに住んでいた朝鮮人たち(一説に約千人)を追い出して、当時、ゴミ処理場と消毒所しかなかった枝川に強制移住させたのだ。
一人当たり一畳という計算で計画された移住という名の「収容」、「十畳長屋」という十畳一間の狭小住宅、屋外に共同の炊事場やトイレがあった。
1951年にまとめられた枝川地区の調査報告書「在日コリアンの生活実態」(日朝親善協会)によれば、この強制収容は「住居の自由を保障する近代社会において、このようなことが公然と行われたことは、ただ驚きかつあきれるほかない」と記される。
この枝川地区にある東京朝鮮第二初球学校(通称、枝川第二)こそ、金明植をはじめとして、金鐘成(きむ・じょんそん)など、幻の日本最強チームといわれた在日朝鮮蹴球団に最も多くの人材を供給し、4人の北朝鮮代表選手を産んだのだ。
彼らは体育の授業や部活ではなく、「草サッカー」、トップダウンではなく、下から持ち上がった子供たちの遊びだった。
上下水道もなく、荒れたままの道、ひとたび雨が降れば泥水と濁流におおわれる環境。
植民地にされたアルジェリアからの移民の子・ジタン、ブエノスアイレス近郊のスラムの子・マラドーナ、被差別の厳しい現実のなかで名フットボーラーが生れた。
ストリートサッカーだ。
朝鮮人にとってサッカーは、特別なスポーツであった。
日本の植民地時代、朝鮮半島において1934年に「蹴球統制令」という法案が提出されたことがある。
サッカーの試合数を行政が制限するという愚かな統治策、それは日本より早くからサッカーに親しんでいた朝鮮人が日本人と試合をするとことごとく勝ってしまうので、このままでは朝鮮人が誇りを取り戻して、抗日の機運に結びつくのではないかと危惧しての法案だったが、さすがに朝鮮人体育関係者の猛反発にあって布告されなかった。
僕も貧しい子供であったが、相撲や三角野球、八の字など遊ぶタネはいくらでもあった。
それでミッキーの誘いに乗らなかったのかもしれない。
苗字が出てこないけれど、「ミッキー」というニックネームの、はしっこい男が熱心に入部を誘った。
運動神経の貧弱な僕だったが、相撲と小さい頃の新聞配達で鍛えていたのでマラソンは人並み以上だった。
文化祭に、全校マラソンというのがあって、学校の裏山を10キロ走る恒例行事があったのだが、それに一年のときかなり上位で戻ってこれた。
たいていの生徒は、とちゅうで歩き出すのを、負けず嫌いの僕は走りとおしたからでもある。
(長い間、売りに出ていた家がようやく売れたようだ)
文化祭に、全校マラソンというのがあって、学校の裏山を10キロ走る恒例行事があったのだが、それに一年のときかなり上位で戻ってこれた。
たいていの生徒は、とちゅうで歩き出すのを、負けず嫌いの僕は走りとおしたからでもある。
その「脚力」に目をつけたのか、ミッキーがしきりに僕をサッカーに誘った。
上水内郡でひとりとか二人という特別奨学生に推薦してくれた中学の恩師が、なんども「いいか、高校では部活なんかやらずに受験勉強をするんだぞ。浪人すると資格がなくなるんだから。」と言ってもいたし、そもそもサッカーをやる自信もなかったから、断った。
ミッキーが僕をしつこく誘ったのは、脚力ではなく、番長仲間と仲が良く、ルーム長になるような性格と、勉強が出来たことで、そこそこの有名生徒だったからかもしれない。
副題が「東京朝鮮学校サッカー部と金明植の時代」。
十条にある東京朝鮮学校は、文部省管轄ではなく、自動車学校と同じような各種学校だからということで、1992年に是正されるまで、高体連に加盟させず、したがって全国高校サッカー選手権に参加できなかった、明らかな差別待遇だった。
その東京朝鮮学校のすぐ近くに帝京高校があって、そこのサッカー部は全国優勝をなんどもした強豪校だ。
帝京が強くなったのは、近くの朝鮮高校と練習試合をなんどもやってしごかれたからということもある。
帝京を強くした古沼貞雄監督は、周囲から朝鮮高校と試合をするな、とヘイト口を利かれたこともあるが、偏見や差別意識のない人だ。
その古沼に筆者が「彼らの高体連加盟をもっと早く推進すべきだったのでは?」と問うと、古沼は「そうは思いません。勝負師なら誰でもそう思うでしょう」と答えた。
東京朝高が予選に出たら、帝京は全国制覇どころか、予選で敗退する可能性が高かった。
上水内郡でひとりとか二人という特別奨学生に推薦してくれた中学の恩師が、なんども「いいか、高校では部活なんかやらずに受験勉強をするんだぞ。浪人すると資格がなくなるんだから。」と言ってもいたし、そもそもサッカーをやる自信もなかったから、断った。
ミッキーが僕をしつこく誘ったのは、脚力ではなく、番長仲間と仲が良く、ルーム長になるような性格と、勉強が出来たことで、そこそこの有名生徒だったからかもしれない。
副題が「東京朝鮮学校サッカー部と金明植の時代」。
十条にある東京朝鮮学校は、文部省管轄ではなく、自動車学校と同じような各種学校だからということで、1992年に是正されるまで、高体連に加盟させず、したがって全国高校サッカー選手権に参加できなかった、明らかな差別待遇だった。
その東京朝鮮学校のすぐ近くに帝京高校があって、そこのサッカー部は全国優勝をなんどもした強豪校だ。
帝京が強くなったのは、近くの朝鮮高校と練習試合をなんどもやってしごかれたからということもある。
帝京を強くした古沼貞雄監督は、周囲から朝鮮高校と試合をするな、とヘイト口を利かれたこともあるが、偏見や差別意識のない人だ。
その古沼に筆者が「彼らの高体連加盟をもっと早く推進すべきだったのでは?」と問うと、古沼は「そうは思いません。勝負師なら誰でもそう思うでしょう」と答えた。
東京朝高が予選に出たら、帝京は全国制覇どころか、予選で敗退する可能性が高かった。
東京都で勝って、関東大会でも優勝する。その後に東京朝高と練習試合を組む。それが2対2のドローだったら、、。「今年のうちはかなり強いぞ」と全国大会の前に自信がつく。帝京に習って、全国の強豪校が「朝高詣で」、朝鮮高校との練習試合を望んだ。
「影のナンバーワン」という東京朝高サッカー部を、1971年から16年にわたって育て上げたのが金明植(きむ・みょんしく)、この本は彼と東京朝高サッカー部の物語だ。
金明植は深川に生まれて、江東区の枝川という人工的に作られた朝鮮人部落に育った。
1936年の幻の東京五輪開催のために、深川の塩崎、浜園の浅瀬を埋め立てて、選手村を作ることになった。
そこで、そこに住んでいた朝鮮人たち(一説に約千人)を追い出して、当時、ゴミ処理場と消毒所しかなかった枝川に強制移住させたのだ。
一人当たり一畳という計算で計画された移住という名の「収容」、「十畳長屋」という十畳一間の狭小住宅、屋外に共同の炊事場やトイレがあった。
1951年にまとめられた枝川地区の調査報告書「在日コリアンの生活実態」(日朝親善協会)によれば、この強制収容は「住居の自由を保障する近代社会において、このようなことが公然と行われたことは、ただ驚きかつあきれるほかない」と記される。
この枝川地区にある東京朝鮮第二初球学校(通称、枝川第二)こそ、金明植をはじめとして、金鐘成(きむ・じょんそん)など、幻の日本最強チームといわれた在日朝鮮蹴球団に最も多くの人材を供給し、4人の北朝鮮代表選手を産んだのだ。
彼らは体育の授業や部活ではなく、「草サッカー」、トップダウンではなく、下から持ち上がった子供たちの遊びだった。
上下水道もなく、荒れたままの道、ひとたび雨が降れば泥水と濁流におおわれる環境。
貧しい暮らしが続き、そして集落の外に一歩出れば差別があった。在日には、そうした鬱積した気持ちを発散させる場所がどこにもない。だから自然と学校のグラウンドに集まってサッカーが始まった。いつまでもいつまでも、時間があれば仲間と試合をやっていたんです。ボールも粗末なもので、雨が降ればすぐに水を吸って重くなる。靴だってボロボロで、すぐに親指が飛び出すから、布を巻いて履いていた。ひどいもんだよ、、。(金の言葉)戦後長らくタクシーに枝川というと行ってくれなかった、隔絶されたエンクレイブ(居留地)は、サッカーの聖地だった。
植民地にされたアルジェリアからの移民の子・ジタン、ブエノスアイレス近郊のスラムの子・マラドーナ、被差別の厳しい現実のなかで名フットボーラーが生れた。
ストリートサッカーだ。
朝鮮人にとってサッカーは、特別なスポーツであった。
日本の植民地時代、朝鮮半島において1934年に「蹴球統制令」という法案が提出されたことがある。
サッカーの試合数を行政が制限するという愚かな統治策、それは日本より早くからサッカーに親しんでいた朝鮮人が日本人と試合をするとことごとく勝ってしまうので、このままでは朝鮮人が誇りを取り戻して、抗日の機運に結びつくのではないかと危惧しての法案だったが、さすがに朝鮮人体育関係者の猛反発にあって布告されなかった。
僕も貧しい子供であったが、相撲や三角野球、八の字など遊ぶタネはいくらでもあった。
それでミッキーの誘いに乗らなかったのかもしれない。
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jyariko-2 at 2023-07-13 13:12
はしっこい って言葉なんだ懐かしい気がします
今高校は文化祭で賑やかです
以前は2学期でしたが
今高校は文化祭で賑やかです
以前は2学期でしたが
2
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saheizi-inokori at 2023-07-13 18:12
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jyariko-2 at 2023-07-14 09:39
飛びっくら って言いました
今も 子供がとんでくる、、、とか使いますね
高校のファイヤーストームは花火に変わったのか
ほとんどの高校が最後に花火を打ち上げています
ファイヤーストームを炊きフォークダンスをした思い出が甘酸っぱいですね
今も 子供がとんでくる、、、とか使いますね
高校のファイヤーストームは花火に変わったのか
ほとんどの高校が最後に花火を打ち上げています
ファイヤーストームを炊きフォークダンスをした思い出が甘酸っぱいですね
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saheizi-inokori at 2023-07-14 09:57
> jyariko-2さん、女子高に行ったあの子と手が結べるか、ドキドキしながら踊っていました。
by saheizi-inokori
| 2023-07-13 12:21
| 今週の1冊、又は2・3冊
|
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