自民党の歴史を学ぶ
2023年 05月 11日
田中秀征の小選挙区見直し論に刺激されて、小選挙区制導入の歴史を勉強するために読み始めた、中北浩爾「自民党政治の変容」を半分読んだ。
その概要を、筆者自身のあとがきの要約をも頼りにしてまとめておく。
自民党の利益誘導政治は、中選挙区制に基づく、国会議員を中心とする分権的な党組織が背景にあった。
同じ選挙区で戦うために党の組織や政策に依存できないから、派閥の庇護のもと利益誘導を行って個人後援会を作り上げた。
ところが、公共投資を重点的に行う必要性が高かった高度成長初期には、利益誘導政治は阻害要因となるため財界が批判的だったために、財政上も制約が強まった。
さらに田中角栄の事件などにより、「構造汚職」、自民党の金権腐敗体質に対する世論の批判は強かった。
マクロな観点にたつ党執行部にも都市化と工業化が進む中で利益誘導政治だけで長期政権をつづけることは困難と考えられた。
本書は自民党が利益誘導政治から脱皮しようとしてどう動いたかを分析する。
1955年の自民党結党に際しては、左派主導で統一した社会党に対抗し、その政権獲得を阻止するためには、国会議員が構成する分権的な議員政党から脱皮して、多数の党員をもつ集権的な組織政党を建設しなければならないと考えられた。
初代幹事長になった岸信介は、戦前回帰、「自主憲法の制定」を掲げて、小選挙区制の導入を図るが、社会党の強い反対と党内反主流派の動きもあり失敗する。
そして、総裁公選や総選挙を通じて、派閥の固定化が進み、個人後援会が広がる。
首相になった岸が小選挙区を先送りした結果、派閥や個人後援会を基礎とする利益誘導政治が定着していった。
(けさの地震でフクロウが)
香山健一、佐藤誠三郎、公文俊一など学者らの日本型多元主義者も総裁予備選を主張していた。
彼らは、自由と多様性を重視し、階級対立や保革対立の弛緩を背景にした都市部の無党派層の取り込みを企図した。
そうした観点からすると、西欧の社会民主主義政党を理念型とする党近代化は望ましくなく、自民党に活力を与えている派閥や個人後援会を積極的に評価した上で、そのエネルギーを密室政治や金権腐敗ではなく、政策上の切磋琢磨や党組織の拡大に向かわせるべきだとしていた。
1978年に実施された総裁予備選は、派閥が党員獲得競争を繰り広げ、個人後援会などを通じて全国的に拡散していった。
香山らをブレーンとする大平正芳が、福田を破って総裁に就任した。
全学連ブントの創始者でもあった香山(当時学習院大学教授)は、「中庸の政治的感覚」の重要性を説き、自民党は護憲政党であることを明らかにすべきだといい、中曽根も「右バネが跳ね上がってはならぬ。左の過激派が跳梁してはならぬ。我々は中庸をいく」と講演した。
中曾根内閣は、日本型多元主義の黄金時代だった、と中北はいう。
しかし、財界は国鉄解体を完遂した中曽根行革を、総体としては漸進的であるとして不満の対象とする。
亀井正夫が社会経済国民会議の政治問題特別委員会委員長として、派閥や個人後援会の公認、族議員による利益誘導政治、巨大な既得権益をあげつらい、これらを生んでいるものは自民党の長期政権だとする。
そして、中選挙区制の廃止を主張するのだ。
ここまで読んだ。あと半分読まなくちゃ。
その概要を、筆者自身のあとがきの要約をも頼りにしてまとめておく。
自民党の利益誘導政治は、中選挙区制に基づく、国会議員を中心とする分権的な党組織が背景にあった。
同じ選挙区で戦うために党の組織や政策に依存できないから、派閥の庇護のもと利益誘導を行って個人後援会を作り上げた。
ところが、公共投資を重点的に行う必要性が高かった高度成長初期には、利益誘導政治は阻害要因となるため財界が批判的だったために、財政上も制約が強まった。
さらに田中角栄の事件などにより、「構造汚職」、自民党の金権腐敗体質に対する世論の批判は強かった。
マクロな観点にたつ党執行部にも都市化と工業化が進む中で利益誘導政治だけで長期政権をつづけることは困難と考えられた。
本書は自民党が利益誘導政治から脱皮しようとしてどう動いたかを分析する。
1955年の自民党結党に際しては、左派主導で統一した社会党に対抗し、その政権獲得を阻止するためには、国会議員が構成する分権的な議員政党から脱皮して、多数の党員をもつ集権的な組織政党を建設しなければならないと考えられた。
初代幹事長になった岸信介は、戦前回帰、「自主憲法の制定」を掲げて、小選挙区制の導入を図るが、社会党の強い反対と党内反主流派の動きもあり失敗する。
そして、総裁公選や総選挙を通じて、派閥の固定化が進み、個人後援会が広がる。
首相になった岸が小選挙区を先送りした結果、派閥や個人後援会を基礎とする利益誘導政治が定着していった。
1960年安保紛争により、社会党の脅威を感じた自民党は、再び党近代化に着手する。
憲法改正や小選挙区制の導入をしないと明言する池田勇人首相は、三木武夫をその責任者とする。
三木は社会党に対して融和的であり、彼のもとで石田博栄が進歩的な労働憲章と基本憲章の制定を進める。
右派の岸・福田とリベラル派の三木・石田の二つの党近代化論が競合したのだ。
1960年代後半、自民党の国政選挙での得票率が五割を割り込み、都市部を中心に革新自治体が相次いで誕生する。
1972年の総選挙で自民党が敗北、与野党逆転が予想されるようになると、田中内閣は小選挙区の導入に動くが、失敗する。
露骨な試みに対する野党の反対と盟友大平をはじめとする党内慎重論があった。
そこで再び登場したのが、小選挙区制なき党近代化を唱える三木武夫、彼は全党員が参加する総裁予備選挙の導入を主張、1976年の自民党敗北後の福田は三木の構想を引き継ぎ総裁予備選が導入される。
憲法改正や小選挙区制の導入をしないと明言する池田勇人首相は、三木武夫をその責任者とする。
三木は社会党に対して融和的であり、彼のもとで石田博栄が進歩的な労働憲章と基本憲章の制定を進める。
右派の岸・福田とリベラル派の三木・石田の二つの党近代化論が競合したのだ。
1960年代後半、自民党の国政選挙での得票率が五割を割り込み、都市部を中心に革新自治体が相次いで誕生する。
1972年の総選挙で自民党が敗北、与野党逆転が予想されるようになると、田中内閣は小選挙区の導入に動くが、失敗する。
露骨な試みに対する野党の反対と盟友大平をはじめとする党内慎重論があった。
そこで再び登場したのが、小選挙区制なき党近代化を唱える三木武夫、彼は全党員が参加する総裁予備選挙の導入を主張、1976年の自民党敗北後の福田は三木の構想を引き継ぎ総裁予備選が導入される。
香山健一、佐藤誠三郎、公文俊一など学者らの日本型多元主義者も総裁予備選を主張していた。
彼らは、自由と多様性を重視し、階級対立や保革対立の弛緩を背景にした都市部の無党派層の取り込みを企図した。
そうした観点からすると、西欧の社会民主主義政党を理念型とする党近代化は望ましくなく、自民党に活力を与えている派閥や個人後援会を積極的に評価した上で、そのエネルギーを密室政治や金権腐敗ではなく、政策上の切磋琢磨や党組織の拡大に向かわせるべきだとしていた。
1978年に実施された総裁予備選は、派閥が党員獲得競争を繰り広げ、個人後援会などを通じて全国的に拡散していった。
香山らをブレーンとする大平正芳が、福田を破って総裁に就任した。
全学連ブントの創始者でもあった香山(当時学習院大学教授)は、「中庸の政治的感覚」の重要性を説き、自民党は護憲政党であることを明らかにすべきだといい、中曽根も「右バネが跳ね上がってはならぬ。左の過激派が跳梁してはならぬ。我々は中庸をいく」と講演した。
中曾根内閣は、日本型多元主義の黄金時代だった、と中北はいう。
しかし、財界は国鉄解体を完遂した中曽根行革を、総体としては漸進的であるとして不満の対象とする。
亀井正夫が社会経済国民会議の政治問題特別委員会委員長として、派閥や個人後援会の公認、族議員による利益誘導政治、巨大な既得権益をあげつらい、これらを生んでいるものは自民党の長期政権だとする。
そして、中選挙区制の廃止を主張するのだ。
ここまで読んだ。あと半分読まなくちゃ。
by saheizi-inokori
| 2023-05-11 13:01
| 今週の1冊、又は2・3冊
|
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