幸せな貧しさ
2023年 03月 19日
毎日6千歩弱、いささか歩きすぎか。
なにもしないつもりだったが、歯磨きのときに癖になっているカカト落としをやったりしているうちに、痛みが消えて、やる気もでてきたので、カミさんのシーツなどを洗って干す。
昨夜、録画でみたパキスタンに逃げたアフガニスタン人たちの惨状を思い出して、こうして燦燦たる陽光に清潔な寝具や衣類を干せる幸せなめぐりあわせに感謝する。
高校のときに、同級生が「布団を干すもんだから、夜暑くてたまらない」とぶーたれた。
そうか、こいつの家には布団を干す場所と、それをしてくれる母親がいるんだなあ、といつもは気にもしていなかった、働きに出て日中不在の母と、ベランダもない家の貧しさを想った。
昨日夕方の散歩は霧雨が降って、手をポケットに入れとかないと辛いくらいに寒かった。
小学生のときに、スキーを履いて3キロほどの雪道を、戸隠に通じる坂まで行って、滑って遊んだ。
スキー場なんてしゃれたもんじゃなくて道路、ふつうの長靴で履いたスキー。
前の晩から蝋を塗っておくけれど、すぐに固まって滑りにくくなる、そのたびにスキーを脱いで塊をこそげる。
それでも一人で遊んで、帰るときは暗くなった。
手の指も、足の先も冷たくなって、鼻水が凍って、そんななかをひたすら家をめざした。
暖かくして待っていてくれる母はいない家を。
それでも滑ったぞ!という満足感はあった、幸せだったのだ。
友だちはちゃんとしたスキー靴で履くスキーを買ってもらってスキー場に行くようになっていた頃だった。
貧しくても、幸せと思うことができるレベル・条件がある。
アフガニスタン人やウクライナ人、日本でもどれほどの人が、その条件を満たして貧しい暮らしをしているのだろうか。
暗い時間の帰り道、家に灯りが点いているのを見たときの嬉しさ以上の気持ち、幸せ感だったのか。
栄養への配慮より食べられることが優先だった時代、父母が子どもに食べさせるために辛い仕事を頑張ってその日もお腹いっぱいに食べられた、その時代を知っている私たち世代は幸せ。
ウクライナから来た人への差別のニュース、それでも、強制送還の不安はない。
いつ強制送還されるかと毎日不安に暮らしている外国人、食べることさえ我慢の毎日。
個人が、食事をさせたり桜を見せたり、数分の幸せを与えても、国は彼らを殺していく、入管で、送り返した国で。
中学生の時にわが家に遊びに来た友だちから
「あ、この家、廊下がある」と言われて「えっ」と
密かにびっくりしたこと未だに忘れられません。
玄関先のほんの短い廊下(と言えば廊下な)だったのですが…。
私は亡妻に社宅住まいしか体験させなかったことが残念です。
もちろん政治家だけのせいではありませんが、貧富の差がこれ程大きくなり、しかも固定したこと、世襲政治家たちが金だけ自分だけ今だけの価値観をはびこらせたことは大きいと思います。