元気になれるぞ 「私とは何か 『個人』から『分人』へ」(平野啓一郎)
2023年 02月 07日
近所の高校、ちょうど放課の時間で、生徒たちが「じゃあね」「ばいばい」といい交わす声があちこちで聞こえる。
東京の子どもは言葉遣いが優しいな。
僕の高校時代は「じゃあ」とか「じゃあな」、「ばいばい」なんて恥ずかしくて言えやしない、せいぜい「ばあい」、ほかは「あばよ」「ぐっばい」だった。
小学生のころは「ぐうばい」といったような気がする。

平野啓一郎「私とは何か 『個人』から『分人』へ」を読了。
「個人」とは、英語でindividual、もうこれ以上分けられない最小の単位を個人という、というのが、普通の考え方だが、平野はその個人をさらに分ける「分人」という概念を提唱する。

正体を明らかにしなかったブログの佐平次と、元国鉄職員だったことを明らかにした僕と。
鬼無里会のみんなといる僕と、国鉄の同期の連中といる僕と、居残り会にいる僕。
子供たちといる僕と会社にいる僕と。
そのどれも、つくろった、かりそめの僕ではなく、ほんとの僕だ。

東京の子どもは言葉遣いが優しいな。
僕の高校時代は「じゃあ」とか「じゃあな」、「ばいばい」なんて恥ずかしくて言えやしない、せいぜい「ばあい」、ほかは「あばよ」「ぐっばい」だった。
小学生のころは「ぐうばい」といったような気がする。

平野啓一郎「私とは何か 『個人』から『分人』へ」を読了。
「個人」とは、英語でindividual、もうこれ以上分けられない最小の単位を個人という、というのが、普通の考え方だが、平野はその個人をさらに分ける「分人」という概念を提唱する。
「私」は、ひとつの存在ではなく、いくつもの異なる存在=分人からなるというのだ。
それぞれの分人は、コミュニケーションをとる相手によって、その数だけある。
母に対する自分、高校の友人Aに対する自分、大学の友人B、恋人に対する自分、上司に対する自分、、それはみんな異なった自分でありながら、どれも「仮面」とか「演技」による自分ではなく真実の自分なのだ。
だから、ほんとの自分を探しても、そんなものはないのだと。

たしかに、付き合う人やグループによって、僕も違う表情をみせているようだ。
寮のみんなといる時の僕と、その中の一人だけといる僕がまるで違った人間になった。
寮のみんなといる時の僕と、その中の一人だけといる僕がまるで違った人間になった。
正体を明らかにしなかったブログの佐平次と、元国鉄職員だったことを明らかにした僕と。
鬼無里会のみんなといる僕と、国鉄の同期の連中といる僕と、居残り会にいる僕。
子供たちといる僕と会社にいる僕と。
そのどれも、つくろった、かりそめの僕ではなく、ほんとの僕だ。

そう考えることで何が変わってくるのか。
相手によって、環境によって、さまざまな分人となれるのが、インチキやごまかしでないのなら、自分の中には「いい自分」もいると考えて明るい気持ちになれる。
出来るだけ「いい分人」になれるような人と付き合って、自分の中の「いい分人」の比重を高めるといいのだ。
それが僕の「個性」を変えていく。
「個性」は変えられるのだ。
僕が複数の分人から出来上がっているように、他人も僕に対するときの分人は、ほかの人と付き合う時の分人と異なっているのだ。
おたがいに気持ちよく付き合って、いい分人でいられるようにする。
虫の好かない、イヤな奴でも、いい分人を前に出していくと、向こうもいい分人をだしてくるかもしれない。
どうしてもイヤな奴とは出来るだけ付き合わないようにするけれど、そうもいかないことがある。
そのときは、イヤでない人と付き合っている分人が自分の中にあることを意識する。
消してしまいたいのは、イヤな奴と付き合っているときのイヤな自分の分人であって、自分全体は生き続けるのだ。

相手によって、環境によって、さまざまな分人となれるのが、インチキやごまかしでないのなら、自分の中には「いい自分」もいると考えて明るい気持ちになれる。
出来るだけ「いい分人」になれるような人と付き合って、自分の中の「いい分人」の比重を高めるといいのだ。
それが僕の「個性」を変えていく。
「個性」は変えられるのだ。
僕が複数の分人から出来上がっているように、他人も僕に対するときの分人は、ほかの人と付き合う時の分人と異なっているのだ。
おたがいに気持ちよく付き合って、いい分人でいられるようにする。
虫の好かない、イヤな奴でも、いい分人を前に出していくと、向こうもいい分人をだしてくるかもしれない。
どうしてもイヤな奴とは出来るだけ付き合わないようにするけれど、そうもいかないことがある。
そのときは、イヤでない人と付き合っている分人が自分の中にあることを意識する。
消してしまいたいのは、イヤな奴と付き合っているときのイヤな自分の分人であって、自分全体は生き続けるのだ。

平野にいわせると、
親しい人との間の分人は、その人が亡くなってもただちに消滅はしない。
仏壇に向って毎朝、故人に話しかけている僕は、彼らをすっかり亡くしてしまったのではないのだ。
逆に僕が死んでも、他者のなかの分人として残っている。
愛とは、「その人といるときの自分の分人が好き」という状態のことである。他者を経由した自己肯定の状態である。
愛とは、相手の存在が、あなた自身を愛させてくれることだ。そして同時に、あなたの存在によって、相手が自らを愛せるようになることだ。その人と一緒にいる時の分人が好きで、もっとその分人を生きたいと思う。
親しい人との間の分人は、その人が亡くなってもただちに消滅はしない。
仏壇に向って毎朝、故人に話しかけている僕は、彼らをすっかり亡くしてしまったのではないのだ。
逆に僕が死んでも、他者のなかの分人として残っている。
虫が好かなければ、結局、無視!!そうならないことを望みます。
昔、エゴグラムによる自己分析で、性格の足りない部分を補完するという、交流分析セミナーがありました。でも解ったことは人格そのものは変わらず、すぐ仮面がはがれるということでした。
たとえば、電話の受け答えで「はい、~~でございます」と昔のお袋なら余所行き言葉に切り替わったように、人格は、優しいお袋、厳しいオヤジ、社会人対応、無邪気な子供、従順な子供、の5種類に分けられるというのです。
脚本家や小説家なら、これを利用して対話の組み立てに役立てられるでしょうが、凡人の私にはさっぱり。
昔、エゴグラムによる自己分析で、性格の足りない部分を補完するという、交流分析セミナーがありました。でも解ったことは人格そのものは変わらず、すぐ仮面がはがれるということでした。
たとえば、電話の受け答えで「はい、~~でございます」と昔のお袋なら余所行き言葉に切り替わったように、人格は、優しいお袋、厳しいオヤジ、社会人対応、無邪気な子供、従順な子供、の5種類に分けられるというのです。
脚本家や小説家なら、これを利用して対話の組み立てに役立てられるでしょうが、凡人の私にはさっぱり。
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> tanatali3さん、言葉だけではなく、キャラクターも変わるのではないか、と私は思います。分裂症かな。
会社在職中はさまざまな性格分析や、教育を受けましたが、私が今の時点で思うことは、「性格は変わらない、でも変えようと努力しているか否かは他人からも分かる」、というくらいです。
環境に応じて違う性格を見せるというのは、性格が変わったのではなく、ただ対象(環境)に応じて、注力している努力量が変わるからだ、と思っています。
環境に応じて違う性格を見せるというのは、性格が変わったのではなく、ただ対象(環境)に応じて、注力している努力量が変わるからだ、と思っています。

平野啓一郎がよく口にする「分人」というものがどんなものなのかよくわかりませんでした。
異なる人格というものでもないのですね。
対面する相手によって違う自分が出てくるということなのでしょうか。
分人の塊が個人?
「分人」が理解できていないまま読んだ「本心」を読み直してみます。
異なる人格というものでもないのですね。
対面する相手によって違う自分が出てくるということなのでしょうか。
分人の塊が個人?
「分人」が理解できていないまま読んだ「本心」を読み直してみます。
> テイク25さん、わかるようでわからない、でもなんか楽しくなる話です。
> ikuohasegawaさん、悪い人も私に悪いだけで、相手によっては良い人なのかもしれない。そう思うとなんだか少しだけ気持ちが明るくなりました。
by saheizi-inokori
| 2023-02-07 10:49
| 今週の1冊、又は2・3冊
|
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