鷗外の風流
2022年 11月 15日
時雨は「冬にさっと降って、さっとあがり、断続し、ときには、しばらく降りつづく雨のことをいう」と手許の歳時記にある。
さいしょ、今朝の雨は「冬の雨」かと思って調べたら、「冬の雨は気温が高いから降るので、感じは暗いが寒さはやわらぐ」とあって、小春日和になれた身にはそぐわない。
今、外を覗くと、やんでいるので、時雨だろう。
初時雨かどうか、おとといの夕方、さっと来たのが初時雨の栄冠に輝きそうだ。
ちんば鶏たまたま出れば時雨けり 小林一茶
街道や時雨いづかたよりとなく 中村草田男
というより、そのためにこの作品を書きはじめて、つぎつぎに小溝や小径に分け入って、杖をとどめては佳景に見入っているのだ。
はじめ参候節に、弥次兵衛申候は、生得の下戸と、戒行の堅固な処と、気の強い処と、三つのかね合い故、目をまはさずにすみ候、此三つの内が一つ闕(かけ)候ても目をまはす怪我にて、目をまはす程にては、療治も二百日余り懸り可申、目をばまはさずとも百五六十日の日数を経ねば治しがたしと申候。を引いて「流行医の口吻、昔も今も殊なることなく、実に其声を聞くが如くである」と書いている。
研ぎ上ぐる刃物ならねどうちし身の名倉のいしにかからぬぞなきを、蜀山等の作に比しても遜色がないという。
そして
筠庭は素漫罵の癖がある。五郎作と同年に歿した喜多静蘆を評して、性質風流なく、祭礼などの繁華なるを好めりと云ってゐる。風流をどんな事と心得てゐたか。わたくしは強ひて静蘆を回護するに意があるのではないが、これを読んで、トルストイの藝術論に詩的と云ふ語の悪解釈を挙げて、口を極めて嘲罵してゐるのを想ひ起こした。わたくしの敬愛する所の抽斎は、角兵衛獅子を観ることを好んで、奈何(いか)なる用事をも擱(さしお)いて玄関へ見に出たさうである。これが風流である。詩的である。と断ずる。
ここにおいて僕は鷗外の風流、詩的に快く同意するのだ。
一読、解らなかった文章の意味が解った時も嬉しいのです。
申し訳ありません、冗談です。新字新仮名でさえ大変なワタシですから。
それから、「花も嵐も踏み越えて鉄道人生44年」拝読しております。
法科出身の方では?と推察していましたが、民営化される以前は、現在の官僚以上に難関の国鉄キャリア組。それを着飾ることなく、真摯に貫く人生は、読み手の心に沁み入ります。
日本中で見られる一情景を簡素な言葉で切り取ったもの、という感じです。
しかも凡百のものには出来ない、好きになりました。
鷗外の歴史小説に疎いため、草田男で書いてみました。
鷗外は巨峰です。