ベートーヴェンと五嶋みどりの宇宙で過去への旅

地下鉄の車内、つぎの停車駅を知らせる掲示が「おてもさん」と見えて、あれ?と思いきや「おもてさんどう・表参道」だった。
長年この電車に乗っているけれど、こんな風に読んだのは、初めてだった。
その表参道で乗り換えて、銀座線で溜池山王に、サントリーホールに行くのは何年ぶりか、インターコンチネンタルホテルのコンシェルジュに道を訊いて、「そこを右に入ってすぐ」のカラヤン広場についた。

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5時半の約束よりだいぶ早く着いたが、待つほどもなく娘が現れた。
「何喰う?」、ホールの前のアークヒルズの看板をみて、ピッツァにしようか、と店まで行ってみるが、予約していないとダメ、コンサートの時間があるので、あまり迷ってもおれず、日本蕎麦とする。
隣りの店のラーメンもうまそうだったが、「なんとなくラーメンという感じじゃないね」、コンサートの前に少しはいつもと違うものを食いたいという気分が一致して鴨せいろ、味も悪くなし。

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去年だったか、娘が行けなくなったというので、代わりにいった五嶋みどりのコンサートで、素晴らしかったと報告したら、誘ってくれた、「サントリーホール スペシャルステージ2022 五嶋みどりデビュー40周年記念~ベートーヴェンとアイザック・スターンに捧ぐ~」、その最終「協奏曲の夕べ」。

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五嶋、指揮者のライアン・バンクロフト、さいごに演奏される「ヴァイオリン協奏曲第2番『不滅の恋人へ』の作曲者・デレトフ・グラナートの三人のプレトークで、人びとのわくわく感を盛り上げる。

ベートーヴェン:序曲「レオノーレ」第3番ハ長調作品72b
新日本フィルハーモニー交響楽団

国鉄末期に、僕は見通しの立たない貨物会社を作る仕事に死力を尽くした挙句、窓際に追いやられてJR発足を迎えたあとは、埼京線の開発をする会社に出向になって、武蔵浦和駅に小さな駅ビルを創ったりしていたら、広告会社を創る仕事を命じられた。

広告会社のことなど、なにも知らなかったが、三か月ほどの間に、白紙の状態から、オフィスをどこに置くか、会社組織をどうするか、既存の会社の合併も含めて、すべて僕が中心になって、なんとかでっちあげたのがJR東日本企画だ。

就業規則を作るのも本を何冊も読んだり、電通博報堂読広などを訪ねて話をきいたりして作った。
日曜日に出勤して、六法や解説書などを横において、一条一条作っていたら、突然停電になって、ワープロの入力部分が消えてしまった。
がっかりして、昼飯にでて、ヨドバシカメラの横を歩いているときに、衝動的にウオークマンをヤケ買い、店にあったテープを貰って来た、そのテープが「レオノーレ」だったのだ。

イヤフオンから、びっくりするようないい音で、優しく、勇ましく、流れてくる曲を聴きながら、消えてしまった条文を思い出し思い出しして、就業規則を完成させた。

その思い出が、一挙に甦ってきた。
死んでしまおうかなどとも考えたときもあったが、まだ幼い子供たちが大きくなるまでは頑張ろうと思って、すべてに全力投球し、そうすることでその仕事にもヤリガイを見いだして、元気になれた。
その頃、まだ高校生だった娘とこうしている、なんともいえない思いが、こみ上げてきた。

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ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品61

待望のみどりさん、優しく、力強く、ときに息も絶えなんばかりに、空駆けまわる。
僕でも知っている曲、知っているとゆったりした気分に浸れる。
ベートーヴェンと五嶋みどりの創る宇宙に心地よく身をゆだねた。

休憩のあとは、五嶋がデトレフ・グラナートに「20分や30分でなく、ベートーヴェンに関連のある・しっかりした曲」をと注文を受けて2019年に作曲された。

グラナートは、ベートーヴェンの遺品から発見された、あて名のない3通の恋文を題材にして、「ベートーヴェンの足音を聞きながら」(ブラームスが交響曲第一番を作曲した時の言葉?)、この曲を作ったという。

現代音楽のような感じ、五嶋の超絶技巧が際立つカデンツァ、小柄な体から怒涛のような、怒りを籠めたような音が迸り、一転優しさの極地に舞い戻り、細くもっと細く、天から降りる蜘蛛の糸のようにかそけき音で昇天する。

僕たちが坐った二階の席から、打楽器の八面六臂のような大活躍がよく見えた。
ベートーヴェンの曲のように馴染みやすいメロディーはないが、一夜明けた今朝も、ふわっとして余韻が残る演奏だった。

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五嶋の歩みをまとめた写真と彼女の文章による「道程」(道のり、と読むのだそうだ。80頁)を、参会者みんなが頂戴した。
寝る前にパラパラっと見たら、「私の楽器」という文章に目がとまった。

身体の成長に合わせてサイズアップしていく楽器を手にいれる(母の)心配、スポンサーが見つかりとうとう手に入れた素晴らしい音色のストラディバリウスが、腱鞘炎になったりしながら必死に歩み寄っても、自分の同朋となれなかったときに、現在のデル・ジェス(1734年作)にめぐりあい、弟の貯金を含めて五嶋家の全財産と事務所の金を借りて、ようやく間一髪で手に入れたとあった。
ベートーヴェンと同じ世界を創るのは大変だね。

けさは、仏壇の亡妻に娘とコンサートに行ってきたことを報告した。

Commented by mitch_hagane at 2022-11-13 13:22
作曲家の伝記なんて、ふつうはあまり読まないのですが、ベートーヴェンだけは例外です。
かの有名な「不滅の恋人」への手紙3通、そしてこの恋が成就せず、人生で最大のスランプに陥ったときに書いた「音楽ノート」、そして交響曲第9で再び立ち上がり、晩年のピアノソナタと死の直前まで書いた弦楽四重奏曲の至高の高みへと、なんてすごい人生かとつくづく思います。
Commented by saheizi-inokori at 2022-11-13 14:39
> mitch_haganeさん、高校の友人がベートーベンの伝記に詳しく、ハイリゲンシュタートでしたかに於ける彼の苦悩との壮絶な戦いについて熱っぽく語っていたのを思い出しました。大学教授になっても、ベートーベンのエピソードのあれこれを講義の途中にしゃべっていると笑っていました。
Commented by miyabiflower at 2022-11-13 14:48
よい音楽に触れて、娘さんと共にとても素敵なひとときを過ごされたのですね。
楽曲の思い出がふえましたね^^
ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲ニ長調作品61は、
子供の頃、父が毎日のように聴いていた曲です。
いつのまにかメロディーを歌えるくらいに覚えてしまいました。
つい先日弟と当時の話をしたのですが、同じように曲を覚えていることがわかって
最近よく聴くようになりました。
昔はレコードだったものを、今はCDで・・・
当時の部屋の様子、若かった父の姿がよみがえる懐かしい曲です。
ちなみに手元にあるものは、ヴァイオリンがカール・ズスケのものと
チョン・キョンファのものです。
これからまた聴こうと思います。
Commented by rinrin1345 at 2022-11-13 17:51
お嬢さんと素敵なデートが出来ましたね。
Commented by saheizi-inokori at 2022-11-13 18:29
> miyabiflowerさん、私はこの曲を覚えたのは大学の寮に備え付けてあったのです。小さな応接室のステレオでなんども聴きました、寝ころがって。
Commented by saheizi-inokori at 2022-11-13 18:30
> rinrin1345さん、もっと昔からいろんなところに連れて行ってやればよかったと、後悔しながらね。
Commented by jyariko-2 at 2022-11-13 19:04
ベートーベンのバイオリン協奏曲大好きです
それからいろんな人のバイオリン協奏曲を聴くようになりました
Commented by umi_bari at 2022-11-13 20:49
やっぱり、素晴らしい芸術に触れるのは、どの分野でも素晴らしいですね。
さらに美味しい物が加われば、鬼に金棒です。
新蕎麦にバグースです❣️
Commented by saheizi-inokori at 2022-11-13 21:38
> jyariko-2さん、力強くて美しくて明快ですね。堂々たるものです。
Commented by saheizi-inokori at 2022-11-13 21:39
> umi_bariさん、いわゆる「命の洗濯」です。
Commented by k_hankichi at 2022-11-14 07:15
saheiziさん、コンサート羨ましいです。
ウォークマンで聴いた序曲「レオノーレ」は囚われていた男を果敢に救う物語の序章。まさにうってつけの音楽だった訳ですね。
Commented by tona at 2022-11-14 09:25 x
ヴァイオリン協奏曲ニ長調、素晴らしいですね。
五嶋みどりももうデビュー40年なのですか。
お母さんが離婚してみどりさんを連れてアメリカに渡ったのはるか昔になるのですね。
デル・ジェスの話も凄いです。
Commented by saheizi-inokori at 2022-11-14 09:51
> k_hankichiさん、そうかあ、そういう物語でしたね、さすがベートーヴェンは偉大ですね。
Commented by saheizi-inokori at 2022-11-14 09:56
> tonaさん、聴く私は、大衆用の安価な楽器で弾かれても違いは分からなと思いますが、弾く側は全財産を傾けるほどの違いがあるのですね。
だいぶ前にテレビで楽器の違いを聞き分けられるかというクイズがあって、かなりの音楽通が間違えていたことを思い出します。

Commented by 20070707open at 2022-11-14 10:45
私はクラシックに関してそれほど詳しくはありませんが、ヴァイオリンの音色が好きです。
saheiziさんの働き盛りの時代を彩ったヴァイオリンの音色を今思い出すことができるのですから生き抜いてきて良かったですね^^
娘さんとの思い出も素敵です♪
Commented by tanatali3 at 2022-11-14 17:38
クラシカルは詳しくありませんが、「ヴァイオリン協奏曲第2番『不滅の恋人へ』」は
映画のワンシーンを彷彿とさせる始まりですね。哀愁を帯びた調べは、“不滅の恋人”に寄せた恋慕とため息が、ときに激しくそして消え入るように、実らぬ想いとなって伝わり、おそらく凍てつく冬空を仰ぐ、作者の想いが目に浮かぶようです。さすがですね、こういう作品を創り上げ、それを演奏する奏者。

それから佐平治さん横顔が浮かびました。大変だったでしょうね、国鉄民営化の嵐は。
Commented by saheizi-inokori at 2022-11-14 18:22
> 20070707openさん、音楽にはその時その時のさまざまな思い出があって、それが甦らせる効果がありますね。
思い出したくないことも含めて。
Commented by saheizi-inokori at 2022-11-14 18:26
> tanatali3さん、ご存知でしたか、それは凄いな。
たしかに映画音楽を聴いているような感じもありました。
国鉄生活のことは、別に「花も嵐も踏み越えて鉄道人生44年」というブログにまとめましたので、よろしかったらお読みください。
Commented by koro49 at 2022-11-14 19:42
娘さんとのコンサート、いい時間でしたね。
しみじみ読みました。

saheiziさんの「花も嵐も踏み越えて鉄道人生44年」未だ拝読していないのです。
冬の閉じ篭り時間に読みたいです。
Commented by saheizi-inokori at 2022-11-14 21:47
> koro49さん、資料も見ないでの書き飛ばしですが、目を通していただければ幸いです。
Commented by ikuohasegawa at 2022-11-15 06:27
久しぶりに五嶋みどりさんのCDを引っ張り出して聞いてしまいました。
いい機会を与えていただき感謝いたします。

それにしても五嶋みどりさんは穏やかな表情で、大人のヴァイオリニストになられたのですね。
Commented by saheizi-inokori at 2022-11-15 09:07
> ikuohasegawaさん、気さくな小母さん、といった風情です。
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by saheizi-inokori | 2022-11-13 12:40 | 能・芝居・音楽 | Comments(22)

ホン、よしなしごと、食べ物、散歩・・


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