何ごとぞ花見る人の長刀 都市対抗野球の思い出
2022年 10月 29日
カーテンをあけると抜けるような青空、よく寝たせいか体調もよい。
これは何もしないのはもったいないと、洗濯機を回して大掃除もやり始めた。
仏壇、玄関、キッチン、トイレだけでもと思ったが、リビングの大きな窓をウタマロまで動員して磨いた。
ゴンチチの今日のテーマは「届く音楽」、「ボクシング」という曲が相手に腕が「届く」といってかかったりする。
窓からはいる朝の空気と陽ざしを浴びて、蛇口がピカピカになる。
ああ、やってよかったとおもった。
明日に伸ばしたら、今夜の酒の味がまるで違ってしまう(今夜呑むのか、おい!)。

むしろ野球部を続けていたのが不思議なくらいだ。

それでも、初年度に最下位を免れたのは、あの金田正一が愛知・享栄商から入団して、快速球と大きなドロップを武器にして8勝を挙げてくれたのと、広島が13連敗して最下位になってくれたからだ。

サードの宇野とかセカンドの箱田などと言う名前もかすかに覚えている。
僕が国鉄に入社した1965年に経営権を産経新聞社に譲り、「アトムズ」となった。
1970年にヤクルトが経営権をもち、73年末に「スワローズ」が復活。
78年に悲願の初優勝で日本一になって広岡監督が国鉄本社に挨拶にきたとき、僕は国鉄大合理化の真っただ中で、職員局にいて国労・動労・鉄労などの労組とくんずほぐれつの大苦戦をしていた。
泥沼にいる身からは、ユニフォーム姿の広岡のスマートさは際立って見え、別世界の人のようだった。

いよいよ国鉄末期、僕は本社の貨物局にいて、先行き見通しのたたない貨物会社を作るという消耗な激務の中心にいた。
もちろん仕事をほっぽりだして応援に駆け付けた。
名古屋勤務のときの秘書や行きつけだったバーのママや名古屋臨海の人たちと、いい席に座っていたら、腕章をまいた男が来て、「そこにはまもなく杉浦総裁が来られますから、後ろに移ってくれ」という。
ムカッときて、よっぽど断ろうかと思ったが、いちおう上司でもあるので、我慢して後ろに移ったら、そこはそれなりに見晴らしがいい。

とうじ、仁杉総裁が辞表を出すとともにいわゆる”国体護持派”の役員のクビを取り、葛西敬之たちの改革派が実権を握って、動労や鉄労と組んで猛烈な国労つぶしを展開していた。
その過程で上記のようないろんな「会」を職場に作って、国労からの脱退を慫慂し、動労や鉄労ないしは新しい組合への加入を図っていた。
「何ごとぞ花見る人の長刀」とは、このことかと、せっかくの興趣を殺がれる思いだった。

日本シリーズのテレビ画面で選手の経歴にJR出身とあると、ついあの日のことを思い出すのだ。
今、東京ドームにJR東日本が出場しても応援に行くことはなくなったから、彼らになんの馴染みもないけれど。
神宮外苑の樹を伐ったあと、こんなどこにもある、どんくさいものを作るのだという。
センスもないし、愚かでもある。
おまけに南北通路には、こんな安っぽいショッピングモールだよ?100年の杜を壊してこれに変えるって、冒涜ですよ。事業者の公式サイトより。https://t.co/Qp6saOgOOq https://t.co/dNdJNkgoST pic.twitter.com/jCABGr7UCx
— つのいてんこ #神宮外苑の樹木伐採に反対します #未来は私たちの行動で決まる (@2Noitenco) October 25, 2022
現在様々な場所で民営化を進めているのは保守とそのブレーン。
暴れまくった青嵐会もあの当時は改革右翼。
今は日本全体が保守右翼政治になっている。
改革が成れば保守になる、それならやはり自民党長期政権は悪、入れ替わりが必要。
昭和は遠くなり明治は近くなる。
たしか、親父は球団維持費?を天引きされていたように思います。