オクスブリッジ風に 「消えた玩具屋」

きのうは嬉しいことにいつもより早く散歩に出られたので、バスに乗って10分ほど先の呑川緑道で降りて周辺を歩いた。
僕の家の近くにもある呑川緑道がここにもあって、川の面影はすっかり消えている。
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細い小径が「緑の散歩道」と銘打たれていろんな樹木が植えられている。
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花梨を、誰ももがないのだろう、下に落ちている実もあったり、
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シイの実を見かけるのもチョットした喜びなのだ。
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緑道の入り口の菓子屋がやっているカフエは高そうなのでスルーして駒沢通りを歩いて柿の木坂交番近くのカフエに入った。
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若い女性が連れてきたトイプードルが、僕を凝視していて、サンチを連れてこないのを咎められているような気がした。
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せんじつ紹介した「愛は血を流して横たわる」の作者、エドマンド・クリスピンの同じくオクスフォードを舞台にした、ユーモアとドタバタの殺人ミステリ。
いささかペダンテイックないろいろが、いかにも英国ミステリと歓迎する人もいる反面、鼻につくという人もいるだろう。
僕は歓迎派、とはいえ「愛は血を流して、、」に比べるとときどきヘキエキしたところもあったのは、「サスペンスに富んでいる」はずなのにドタバタが冗長に感じられたからかもしれない。

アリバイ崩しの本格ミステリというべきだが、そこんとこがややこしくて、チトめんどくさい。
筋書きよりも、オックスブリッジ風の饒舌やジョークを楽しむべきか。

たとえば、こんな話。
イエズス会員で、自分は病気であるという憂鬱症に取り付かれているウエールズ人(これになにか寓意があるのか)、この地域内の医者という医者にことごとくかかっている、すこぶる健康なガウワー氏に、医者に関する情報を訊きに行くと、その寝室は”人間嫌い”のモリエール時代いらい、ほとんど想像できないような多くの憂鬱症の証拠、たくさんの薬瓶や室内用便器、薬用グラス、吸入器など、が並んでいて、室内は暗かったけれど、ガウアー氏が、ほとんど異常なほど健康らしい事実は、はっきりと見てとれた。
「わしは病気なんだぞ」というガウアー氏に「そういえば、すごくやせ衰えているようですね」というと、ガウアー氏の顔には、よろこびの表情が影のようにあらわれた。
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主人公のフェン、オクスフォード大学教授は、警察本部長に追われながらも犯人追跡に大立ち回りをする、その過程で自分のゼミナールの生徒をアシスタントに調達し、本日のゼミナールの打ち切り宣言をし「次のゼミでは、ハムレットを、原典、とくにもはや残存しない初期の原本に即して論じることにしよう。それは奇想天外な憶測をたくましゅうすることのできるすばらしい研究分野であることを諸君は知るだろう」と予告する。

著名な詩人であるキャドガンが、保養のためにオクスフォードに出かけて、乗った列車がオクスフォードまで行かないことが判明し、「なんとか夫人の恋人」の愛読者であるトラック運転手をヒッチハイクし、街角で降ろされて歩いている途中で見かけた不審な玩具屋で絞殺死体を見つけることが事件の端緒。

何者かに襲撃されたギャドガンが、意識を回復すると玩具屋も死体も消えていて、警察は彼の言うことを信じてくれない。
キャドガンは友人のフェンに事件のことを話し、二人はドタバタ喜劇のコンビよろしく真相究明にかかる。
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そのギャドガンが、重要な証人である美人娘・サリーとの「詩人」についての会話。

ギャドガンが詩人には見えない、とサリーがいったのに対して、「ワーズワースは馬に似ているし、チェスタートンはシェイクスピア劇のフォルスタッフそっくり、ホイットマンは、たくましく毛むくじゃらで、まるでゴールド・ラッシュの探鉱者、チョーサーは政府の役人で、シドニーは軍人、ヴィヨンは泥棒、、、」ときりがない。
「でも、詩人って、どこか共通したところがあるんじゃないかしら」とサリー、「それはある。詩人はみな詩を書くからね」とギャドガン。

彼の詩についての考えはこうだ。
詩ってやつは、個性の成果ではない。詩は、一人の人間の心や習慣、感情、その他個性を構成するすべてのものから独立して存在するんだ。詩的情緒は非個性的なものなのだ―ギリシャ人が、これを霊感と呼んだのも、しごく当然だ。だから、詩人が個性的にどんな人間かということは全然問題にならないんだ。問題なのは、その人間が詩の波(ウエイヴ)にたいして、すぐれた受信機かどうかということだけだ。詩は、それ自身が気のむくままに去来する天の配剤なんだ。(略)
ぼくはむしろ、その事柄(詩になる事柄)がはじめて詩人に気づいたと言ったほうが正しいんじゃないかと思う。詩人は、バラでも、そのほか何でも、それが自分に向って輝くかのように感じるものだ。そして、その最初の瞬間がすぎると、それをうたいあげる言葉が浮かんでくる。すると、急に詩人は我にかえる。すべての個性が一気によみがえって、その詩人がどんな人間であるかによって、あるいは『カンタベリー物語』となり、あるいは『失楽園』となり、あるいは『リヤ王』になる。それが詩人の仕事なんだ。
ドタバタ喜劇にふさわしくないようなシリアスな、ちょっと矛盾しているような言葉も「お取込み中」に交わされる、それがこのミステリの特徴かもしれない。
大捕り物の爆笑描写はこの次に。

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by saheizi-inokori | 2022-10-19 08:36 | 今週の1冊、又は2・3冊 | Comments(0)

ホン、よしなしごと、食べ物、散歩・・


by saheizi-inokori
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