二重の「人間の家畜化」 「反穀物の人類史」
2022年 10月 06日
そう思ったけれど、寝ていたサンチが出て来て、なんか食わせろ顔。
乾燥リンゴのひとかけ(小指くらい)をやっても、後をついて離れない。
このところ嘔吐などもあるので、けっきょく外出を諦めて、納豆を食って(これに飽きたのだが)ベッドで本を読み始めると、すばやく走ってきて膝の上に寝転がって「ここが俺の席」顔。
コロナが落ちついても、サンチをおいての泊旅行は出来そうもないな。
着かえも長袖は暑いので半袖、そのときが14℃、今パソコンを見ていたら急に寒くなって13℃、上っ張りを着てちょうどよくなった。
今夜はタオルケットから上掛け布団に選手交代だ。
狩猟採集、遊牧のさすらいと異なり、農耕定住化したドムスには、耕地、種子や穀物の蓄え、人、そして家畜動物が前例のないほど密集し、すべてが共進化しながら、誰にも予想しえなかった影響を生み出した。
何千万という招かれざる生物がやってきて、この小さな生態系で繁栄した。
農民が作り出した培養変種、完全にドムス生物化された植物は、もはや人間が世話をしなければ滅んでしまう。
ドムス化された動物もまた、今までの野生の選択圧を免れた代わりに、人間から、ドムス複合体の全体から、新たな選択圧にさらされた。
家畜化されたのは、植物や動物というより、人間だったともいえる。
作家のマイケル・ポーランは、庭いじりをしていて突然閃いたという。
ジャガイモが元気よく育っている周囲の雑草を抜き、鍬で土を掘りながら、ふと、知らないうちに自分がジャガイモの奴隷になっているように見えてきたのだと。自分はここで、手をつき膝をつき、来る日も来る日も、雑草を抜いたり、肥料をやったり、絡んだ蔓をほどいたりと、あれこれ守ってやりながら、周囲の環境を、ジャガイモという植物が期待するユートピアに作り変えてやっている。
作物化した植物がわたしたちの助けなしに繁栄できないのだとすれば、わたしたちもまったく同じように、種としての生き残りを一握りの栽培品種に依存してしまっているのではないだろうか。
牛もわたしたちの、たゆまざる献身的な世話によって、のんびり、だらだら、のろのろと一生を終えていく。
人間が『家畜化』されたばかりか、
野生の動植物を飼い馴らしたことは、わたしたちの種が自然界への注意力とそれに関する実践的知識を縮小させたこと、食餌の多様性が乏しくなったこと、空間が小さくなったこと、そしておそらくは、儀式生活の幅が狭まったことをも意味しているのだ。そのうえ、以前、紹介した国家による「人間の家畜化」があって、多くの人間は二重に奴隷化されている、ともいえるのではないか。
たとえば、僕は目に見えない形で1パーセントの富裕層と産軍国家とその茶坊主どもの、思い通りになっているのかもしれない。
と改めて思ったりします。人間も?
そろそろ切り上げることにしましょう。