お茶を飲みに行く家

台風の先触れの雨が昨日から降っているが、けさは束の間、晴れ間がのぞいた。
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(散歩の途中で花やのリンゴに長野を思い出した)

スマホの雨雲予想をみながら、洗濯物を室内に干したりベランダに移したり、さっきまた部屋に取り込んだら、まっていたように激しい雨。
九州や中国地方の方たちは、こんな太平楽をこねていられないのだ。
さっさと消えてしまえ、台風。
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消えるといえば、きのう消えたと思ったブログの下書きが、あとから出てきた。
どういう塩梅なのか、皆目見当がつかない。
やはり「長すぎる!」という一喝か。
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「くらしのアナキズム」の続き。

多数決は民主主義の本質ではないばかりかコミュニテイを破壊しかねない。
それは、今の日本に住んでいれば激しく納得できるのではなかろうか。
それは必ずしも「全員一致」であることを要しない。
反対意見を持つ人がいても、その意見が無視されたり、排除されたりしているわけではない、と思わせるような高度なコミュニケーションが大切なのだ。
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そういうコミュニケーションは、西洋に起源をもつものではなくアフリカやブラジルの農村に見られ、日本でも宮本常一「忘れられた日本人」(おとといの古本屋にあった、昔読んで処分してしまったのだ)に、みんなが納得するまで三日間も徹夜で話し合いを続ける「寄り合い」のことが報告されていた。
そこでは、経験豊富な年寄りの弁舌も有効だった。
村で起きる問題の解決に果たした「世話焼きばっぱ」のはなし。
他人の非をあばくことは容易だが、あばいた後、村の中の人間関係は非を持つ人が悔悟するだけでは解決しきれない問題が含まれている。したがってそれをどう処理するかはなかなかむずかしいことで、女たちは女たち同士で解決の方法を講じたのである。そして年とった物わかりのいい女の考え方や見方が、若い女たちの生きる指標になり支えになった。何も彼も知りぬいていて何にも知らぬ顔をしていることが、村の中にあるもろもろのひずみをため直すのに重要な意味を持っていた。
ほっておかれた敬老の日ゆえに我が意を得て引用したのではない。
現代においては、社会現象が急激に変化していることや自分たちで取得できる情報量(質ではなく)が多すぎるからか、若者たちが年長者の発言に重きをおかなくなったし、かく言う僕も含めて年長者が自信を失っているから、宮本が報告するようなことはなかなか望みえないと思う。
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きだみのるの「気違い部落周遊紀行」には、東京の旧南多摩郡の部落の「親方」や「世話役」の事例が報告されている。
10件から16軒、50名から80名の集落をまとめる世話役。
世話役はあくまで世話役らしく振るまわねえじゃあなあ。でなかったら部落は纏まるもんじゃあねえよ。そして他部落の笑いものにならあ。

部落の住民は公平、衡平、平等などについては意外に敏感で、伝統はそれを実現するため人知のすべてを盛りこんだ形跡があり、それでもなおかつ人間そのものの条件である不完全さのため、精神の要求する完全な公平が実現できず、それによって起こる不満羨望を取り除くためにもこれまた人知のすべてをつくしている。
だれもが欲深いからこそ、それを同時に成り立たせ、不満が出ないようにするための、公平/公正な仕組みを編み出すのだ。
あえて多数決をしない暮らし第一主義の神髄を世話役の一人が語る。
そらあ、多数決の方が進歩的かも知れねえが部落議会にゃあ向かねえや。多数決つうなあ決戦投票だんべえ。ここいらで決めるのは我が身の損得になる問題が多いんだわ。だから負けた方は論には負けるし銭はふんだくられるし、仲よしも向こうにつくでは、どのくれえ口惜しいか解るめえ。だからその恨みが何時までも忘れられずに残らあ。それじゃあもう部落はしっくり行かなくなるんで部落会じゃあやりたがらねえのよ。部落議会じゃあ、村議会でもそうだが十人中七人賛成なら残りの三人は部落のつき合いのため自分の主張をあきらめて賛成するのが昔からの仕来りよ。どうしても少数派が折れねえときにゃあ、決はとらずに少数派の説得をつづけ、説得に成功してから決を採るので、満場一致になっちまうものよ。それに数が少ねえもの。部落が仲間割れしちゃあ少数派は元より多数派も茶飲みに行く家の数がへってうまかあねえもの。
茶飲みに行く家、それこそが「安全な居場所」なのだ。
民主主義の基本がそこにある。
そんなことを言うやつは愛国者ではない!なんていう政治家、世話役らしく振る舞うことも出来ない連中が、我が物顔で闊歩しているのが、現状であるけれど。
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(三軒茶屋で)

子供の頃、母は僕たちと一緒にいるのと同じように、近所のおばさんたちと行ったり来たりでお茶を飲んで、漬物もつまんで世間話をするのが心の安らぎであったと思う。
幼い僕もそういうところを見ているのが好きで、なんだか安心できた。
会社帰りに変な男につけられたといって青くなって帰宅した母を、僕では慰められなくて、近所のおばさんを「お茶飲みに来てって」とウソをついて呼んだこともある。
Commented at 2022-09-19 15:53 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by saheizi-inokori at 2022-09-19 16:12
> 鍵コメさん、それはとても幸せな日々ですね。
私には夢のような老後です。
私に限らず、そういう人が増えていくのではないでしょうか。
今の人たちは、面倒だとか言いますが、年をとると気持ちが変わって来るのではないかとも思います。
Commented by kogotokoubei at 2022-09-20 07:47
ユダヤ人の格言の中に、全員一致の採決は無効、というのがあります。
反対意見がないと、検証が出来ないからなのでしょう。
そういう姿勢にこそ民主主義が宿るのだと思います。
多数決は、民主主義ではない。
弟さんの本にも、しっかり書かれていました。
Commented by shinn-lily at 2022-09-20 07:58
ご近所はみなさん当たり障りなく、井戸端会議もないという新興住宅地ですが、それでもおはぎや美味しい卵をもってきてくださる方々がいます。そんな時は
「お時間があったらおあがください。お茶でも・・・」とお声をかけます。
コロナ禍で考えさせられたことは小さなコミュニティの大切さです。
みなさん用心深く人のうわさ話は決してしませんし、ほんのひと時のおしゃべりなのに心がすこしずつほどけていくのを感じます。
本日のブログを拝見して、そうだ多少のトラブルがあったって、つながっていこう、つなげていこうと思いました。
Commented by saheizi-inokori at 2022-09-20 10:04
> kogotokoubeiさん、その基本がないがしろにされてしまったのは、強行採決を連発する与党の責任でもあり、充分に学んで議論することを避ける国民の責任でもありますね。
Commented by saheizi-inokori at 2022-09-20 10:09
> shinn-lilyさん、用心深く始まって、やがて堰を切ったように笑いがはじける。
心の底では話をすることを求めている人の方が多いのではないでしょうか。
とはいえ、私もほとんど人と話らしい話をしないでうち過ごしていますが。
Commented by doremi730 at 2022-09-20 15:55
ちょっとお茶を飲みに、、なんて誘われたことも無いし、誘ったこともない。
実家でもそうだったからかもしれない。
何か作ったものを差し上げるのも玄関先で。
お呼びする時は準備万端整えてだ、、、
主人の実家の新潟では、しょっちゅう誰かが来ては囲炉裏端でお茶していたな~
主人の父が病気だったせいかと思っていたが、あれが普通なのかもね
Commented by saheizi-inokori at 2022-09-20 16:01
> doremi730さん、子供の頃は親しい近所の家にはどんどん上がっていっちゃいました。
引き揚げ者が多く、みんな生きていくのに精いっぱいだから見栄も外聞もなし、あけっぴろげでした。
いま、そういうことはできなくなったですね。
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by saheizi-inokori | 2022-09-19 11:15 | 今週の1冊、又は2・3冊 | Comments(8)

ホン、映画・寄席・芝居、食べ物、旅、悲憤慷慨、よしなしごと・・


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