デカダンな万葉詩人
2022年 08月 31日
去年の日本シリーズから、晩酌のときにプロ野球中継を見ることが多くなった。
いぜんはアンチジャイアンツで、ほかのどのチームが勝っても良い、それは新聞で結果をみることで事足りたから、テレビで中継をみるほどの興味はなかった。
むしろあんな退屈なものをなんで見るんだろうと思ってもいた。
それが、ヤクルトスワローズの村上を見て、さらに中村捕手などの他の選手の様子もみてすっかりヤクルトフアンになってしまった。

会津坂下駅で世話になった真壁助役の息子さん、とうじ学校に上がる前だったか、僕が休みの時に「駅長さん、遊びましょ」と社宅を訪ねてきた。
障子紙と竹ひごで凧を作って遊んだ。
その坊や、秀典君と村上がよく似ている。
金時さんのような顔と風貌も似ている。
会津の中学の教諭をしていて、僻地の子どもと一緒にいたいからと昇進試験を受けなかったそうだ。
村上が出てくると、秀典君のイメージに重ねて「がんばれ!」と声援を送ってみていた。
その念が通じたってことはないだろうが、いまや村上は村神様といわれるほどの隔絶した存在になってしまった。

じっと見ているうちに、バッテリーと打者や野手の駆け引きも少しは分かるようになって、退屈するどころか息をつめて一球一球を見守るようになった。
亡き野村監督が、野球は頭脳だ、みたいなことを言ってるのを「何を大袈裟な」と思っていたが、いまはしみじみその通りだと思う。
優れた捕手や監督の記憶力、観察力、分析力、胆力、忍耐力は並大抵の人間には太刀打ちできないのではないか。
まさか、この僕が晩酌でプロ野球中継にのめり込むとは、我ながらそよとも思わなかったなあ。

きのうもトロトロうたた寝を挟んで「万葉の人びと」を楽しんだ。
志貴皇子は天智天皇の息子であったがゆえに、天武の朝廷ではアウトサイダーであったことが、現実よりもずっと遠くを見る眼を養った。
もう訪ねていくことは出来ないから僕を「遠くを見よう」。
大伴旅人の九州勤務、妻の死などによる寂寥・望郷の念が深い教養に裏打ちされた「酒を讃むる歌 十三首」や「松浦仙媛」の歌があり、その出自では僕が身近に感じる山上憶良には、あの「私はもう帰ります、子どもが泣いて、その母の待ってるから」の歌だけでなく「志賀島漁民秘話」を素材に作った「筑前国志賀白水郎(しかのあま)歌十首」というのもあるのだ。

いぜんはアンチジャイアンツで、ほかのどのチームが勝っても良い、それは新聞で結果をみることで事足りたから、テレビで中継をみるほどの興味はなかった。
むしろあんな退屈なものをなんで見るんだろうと思ってもいた。
それが、ヤクルトスワローズの村上を見て、さらに中村捕手などの他の選手の様子もみてすっかりヤクルトフアンになってしまった。

障子紙と竹ひごで凧を作って遊んだ。
その坊や、秀典君と村上がよく似ている。
金時さんのような顔と風貌も似ている。
会津の中学の教諭をしていて、僻地の子どもと一緒にいたいからと昇進試験を受けなかったそうだ。
村上が出てくると、秀典君のイメージに重ねて「がんばれ!」と声援を送ってみていた。
その念が通じたってことはないだろうが、いまや村上は村神様といわれるほどの隔絶した存在になってしまった。

亡き野村監督が、野球は頭脳だ、みたいなことを言ってるのを「何を大袈裟な」と思っていたが、いまはしみじみその通りだと思う。
優れた捕手や監督の記憶力、観察力、分析力、胆力、忍耐力は並大抵の人間には太刀打ちできないのではないか。
まさか、この僕が晩酌でプロ野球中継にのめり込むとは、我ながらそよとも思わなかったなあ。

楽浪(ささなみ)の国つ御神の うらさびて 荒れたる京(みやこ) 見れば悲しも壬申の乱後の荒廃に神の不在・離脱を詠んだ高市黒人、おなじ宮廷歌人であっても人麻呂よりも自分だけの「個」を歌おうとする。
田児の浦ゆ 打ち出でてみれば 真白にそ 不尽(ふじ)の高嶺に 雪は降りける百人一首でもおなじみの山部赤人の歌を、この歌だけを鑑賞するのではなく、その前段の長歌と一体になったものとして、すなわち長歌では観念的に富士を時間的にとらえるのに対して、反歌では空間的にとらえている、そのコンポジションとして味わうことを教えてくれる。
志貴皇子は天智天皇の息子であったがゆえに、天武の朝廷ではアウトサイダーであったことが、現実よりもずっと遠くを見る眼を養った。
采女の 袖吹きかへす 明日香風 都を遠み いたづらに吹く明日香村の甘樫丘にこの歌碑があるという。
もう訪ねていくことは出来ないから僕を「遠くを見よう」。
大伴旅人の九州勤務、妻の死などによる寂寥・望郷の念が深い教養に裏打ちされた「酒を讃むる歌 十三首」や「松浦仙媛」の歌があり、その出自では僕が身近に感じる山上憶良には、あの「私はもう帰ります、子どもが泣いて、その母の待ってるから」の歌だけでなく「志賀島漁民秘話」を素材に作った「筑前国志賀白水郎(しかのあま)歌十首」というのもあるのだ。

高橋虫麻呂について犬養先生は
耽美、デカダンにも通じる虫麻呂の心の奥深くに潜む、孤愁・孤独。
芥川龍之介にも見られる、一種の不健康で病める孤独だと犬養曰く。
ぼくは、この虫麻呂という人は、一言でいえば、徹底的な”美”の使徒だと思うんです。山部赤人は現実から逃避して自然の中にはいる。旅人もまた芸術の世界に遊ぶ。憶良は逆に現実の中に入り込んでくる、こう申しましたね。ところがこの人はもう全く現実からは完全に離れてしまっています。彼は、この世を現実とすれば、「第二の現実」というものを、自分の好きなように、自らのうでで作り出していくんです。それは必ず、いつも人間の世界です。けれどもそれは、この世の人間とは違う。浦島伝説に材をとり乙姫の浪漫美の世界を歌い、花を散らすなと風の神にも語りかける。
耽美、デカダンにも通じる虫麻呂の心の奥深くに潜む、孤愁・孤独。
芥川龍之介にも見られる、一種の不健康で病める孤独だと犬養曰く。
村神様いいですね
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村上選手、凄い選手が出てきましたね。楽しみです。弟さんも甲子園に出ていました。
『万葉の人びと』読みこめばまた新しいことがわかって、saheizi大先生の解説で浸ることが出来ました。有難いです。
『万葉の人びと』読みこめばまた新しいことがわかって、saheizi大先生の解説で浸ることが出来ました。有難いです。

犬養先生、流石です。
覚えているのは若い子に万葉集を親深く味わってほしいと 歌ったり 「コモヨミコモチ みぶくしも・・」の歌の解説に 「アナタのお名前なんて言うの?」と声をかけて誘っているんだよねー と今で言うナンパの情景を面白くして退屈しないようにしてました。
ミコモチ みぶくし とミ が付くのは 好ましく思う人が持っているヘラ にはミ が付くんですよ。つまりはおヘラ おカゴ
岡山市にある和菓子店 『籠もよ』 と言う店があります。
遠山美都男 氏の本を読む勇気が出ません。 多分 日本史とか中国の三国志の世界のひと殺しの情景が迫って病氣になるほど戦争とか人が憎み合うのが嫌だった若い日が蘇るのだと思います。
勉強がイヤ 苦手でした。 佐平次さんのように次々と本を読んで要約して 自分の頭を整頓できるような脳 を持ち合わせていません。ずっとこのままだと思う。
詩歌の解釈と鑑賞が ちょうど良いのだと思う事にします。
覚えているのは若い子に万葉集を親深く味わってほしいと 歌ったり 「コモヨミコモチ みぶくしも・・」の歌の解説に 「アナタのお名前なんて言うの?」と声をかけて誘っているんだよねー と今で言うナンパの情景を面白くして退屈しないようにしてました。
ミコモチ みぶくし とミ が付くのは 好ましく思う人が持っているヘラ にはミ が付くんですよ。つまりはおヘラ おカゴ
岡山市にある和菓子店 『籠もよ』 と言う店があります。
遠山美都男 氏の本を読む勇気が出ません。 多分 日本史とか中国の三国志の世界のひと殺しの情景が迫って病氣になるほど戦争とか人が憎み合うのが嫌だった若い日が蘇るのだと思います。
勉強がイヤ 苦手でした。 佐平次さんのように次々と本を読んで要約して 自分の頭を整頓できるような脳 を持ち合わせていません。ずっとこのままだと思う。
詩歌の解釈と鑑賞が ちょうど良いのだと思う事にします。
> 福さん、風土とか地理歴史とのかかわりを重視して、「その場」で鑑賞する手法はもっと早く知れば私も万葉の旅に出たかもしれないです。
旅行先でたまたまついでに歴史や故事を知るというのでなく、そもそもそのために旅に(準備をして)出るのです。
雪の降る日を探して行ったり、、。
旅行先でたまたまついでに歴史や故事を知るというのでなく、そもそもそのために旅に(準備をして)出るのです。
雪の降る日を探して行ったり、、。
> tonaさん、街道の旅の次は万葉の旅はいかがでしょうか。
> jyon-nonさん、九州男児ではなかったかなあ。ひごもっこす!川上哲治もそうだった。
by saheizi-inokori
| 2022-08-31 12:04
| 今週の1冊、又は2・3冊
|
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