鷗外の喜び 「澀江抽斎」
2022年 08月 10日
夏休み前ということに関係があるのかないのか(老人が多い)、けっこう混んでいた。
自動受付機の前で、お爺さんが(といっても僕よりも若いかな)が、おばあさんを罵ってせかしている。
お婆さんが、バッグをゴソゴソして受診カードを出さないから埒があかないのだが、お婆さんは「そんなに言われても、、」と弱弱しく抗議する風情、「だって、お前が、、」あとは聞かずに先に行った。
清算機の近くでもまたお二人に遭遇、お爺さんも足の具合がよくないようだ。
こんどもぶつぶつ怒っていたが、診察が済んで気持ちが和らいだのか朝より温かみを感じた。
妻の身体が気になるのに、自分も万全の体調とはいえない、つい不機嫌になってしまうのかもしれない。
しかし、客観的に見たら、いちおう二人揃って自分の足で病院にこれるのは、幸せの部類に入るのじゃなかろうか。
さっぱりしてうまいカレー、誰もいない店で本も読んで過ごした。
写真の階段を上って突き当りのドア(とてもこの奥に店があるようには見えない)を押して、むっと熱い普通のアパートの廊下をちょっと歩いた右側に、五人くらい座れる店がある。
暑さが不機嫌をまき散らしているのか。
まさか、アベの国葬に腹を立てているのではなかろう。
抽斎54歳のとき、将軍家定がコレラで死に、慶福の代となり公儀召し抱えの内示があったが、断った。
公儀に仕えるなら、津軽家の方を辞さなくてはならないが、それはこれまでの主家を捨てて栄達を謀ることになるので、病気ということにして双方から身を退いて隠居することにしたのだ。
そのときに、抽斎は妻・五百に
父と同じように七十四歳まで生きられるとすれば、まだ二十年程の月日がある。これからが己の世の中だ。己は著述をする。先ず老子の註を始として、迷庵棭斎に誓った為事(しごと)を果たして、それから自分の為事に掛るのだ。と言った。
にもかかわらず、その月のうちに体調を崩し逝去してしまう。
このことが書かれるのが、「その五十三」であって、その後「その百十九」までこの史伝は続くのだ。
抽斎のなした多くのこと(判明するのはその一部)を始め、妻・五百や遺子、彼らの師友など多くの人たちの、その後を分かる限り、鷗外が必要と認める限り、独特の文体で年を追って書き継ぐのだ。
とくに母・五百(いお)五十三歳以下、戸主となった成善12歳、陸(くが)二十二歳、水木(みき)十六歳、専六十五歳、優善三十四歳の家族と若党六人、同行を許された矢川文一郎と浅越一家が、津軽弘前に戻るときの苦心、その後の子供たちが維新の世でさまざまな生き方をするのを丁寧にかつ興味深く記す。
出入りの職人長八は、抽斎の治療を受けた後、妻子を養うことができないのを、抽斎が見かねて長屋に住まわせていた(こういう食客が多かったのも抽斎の富まざる所以)のだが、抽斎の葬式の世話をしたあと家で一合の酒を飲み「あの檀那様がお亡くなりなすつて見れば、己もお供しても好いな」と言って、二階に上がって寝て翌朝には死んでいた。なんと幸せな人生だろう。
六十六歳の鮓屋久次郎も同行をせがんだけれど、藩の当事者が許さなかった。
五百は土佐山内家の血筋で、文人墨客と交わり、彼らの保護者にもなっていた鉄物問屋(かなものどひや)山内忠兵衛の二女として生まれた。
忠兵衛は抽斎の父・允成(ただしげ)の友人で、嫡子栄次郎の教育を抽斎に託していたので、家同士の付き合いもあった。
忠兵衛は、二人の娘に普通の読み書き諸芸の外、武芸も仕込んで、特に五百には経学も授けた。
五百は十一二歳の時、本丸に奉公、そこでも悪戯者の若殿を懲らしめるという武勇伝をのこす。
本丸を下がった後(十四歳?)、藤堂家に奉公するまでに二十幾家の屋敷を目見えして仕えるに足る屋敷かどうかを見極める。
五百が抽斎の嫁になったのは、五百自身が密かに人を介して仲人口をきいてもらったのだ。
その時、頼りない兄たちに代わって五百に松坂屋の通い番頭を婿にとって店を宰領させようという動きがあったが、それを五百は断っての上のことだ。
そのわけは、商人の夫と自分では聖堂にまなんだ兄たちに軽んぜられる恐れがある上に、兄が家督を譲って隠居するとなると、その行動に対しても強くは出られない、さらに兄の身代を譲られるのも潔しとしない。
その点、抽斎の妻となれば、五百の監督忠告をないがしろにはできまい、ということだ。
事実、五百は彼らの喧嘩の仲裁や助言を惜しまなかった。
息子・成善改め保(鷗外はこの人に抽斎に関わる資料の多くを得ている)にスペルを教えてもらい、ウィルソンの読本に移り、一年ほどで、パアレエの万国史、カツケンボスの米国史、ホオセツト夫人の経済論等をぽつぽつ読むようになった。
教育や評論、著述などに活躍した保、長唄の師匠杵屋勝久として杵屋のまとめ役を全うした陸などの活動もそれぞれ一つの評伝となるくらいの質量を有し、とうじの社会を知る上でも貴重な史料となっている。
鷗外は彼らのことを知り、それを書き著すことが嬉しくてしょうがなかったのではないか。
簡潔な言葉に深い含蓄があり、鷗外のやさしくも公正な目を感じた。
こりゃあ、もうますます鷗外を読まずして!
私の周りの若い人はわりと礼儀があり優しいと思うことが多く「今の若い人は」ではなく「今のお歳よりは・・・」と言われる時代になったのかな?^^;
私も気をつけなくちゃ、と思います。
にカードを探している妻に向かって、明治大正生まれでもない夫が
今だこんな言葉を吐いている 冒頭のシーンに切なくなりました。
事務所がとか 気が付かなかったとか へらへら笑い環境大臣に至っては祝電は全部に出すとか
=嘘つけ=! 憲法20条「国及びその機関は、いかなる宗教的活動もしてはならない」でしょうが
メッセージも祝電も堂々の応援活動、重要規則を破りこの職位にいたのなら辞めろ!ですわ
「小川 尭洋(記者)のTwitter」を読み、そこから
「政治系高校生@ハートのメガホンのTwitter」を読んで真っ当な若い知性に希望を持ちました
もうますます鷗外を読まずして! へ思いを書きたかったのですが 怒りで長くなりまして 沈
いつかはそんな時が来るんだろうなって^^;
付添いが必要な人の介助は、圧倒的にプロの方が多く、家族の介助は少数派。
私たちもいつかはプロの援助が必要になってくるんだなって。
こんなカレーが食べたい。
きっと食後も胃がスッキリしてるような^^。