思いやり
2022年 08月 07日
三人目は、道端にしゃがんで袋のなかをガサガサやりながら「無い、ない」と言って泣いている。
最近は夕方の近所散歩のほか、町を歩く機会は格段に減ったのに、歩くたびに独り言をいう人に会うような気がする。
抽斎の説く学問の道。
凡そ学問の道は、六経を始め聖人の道を身に行ふを主とする事は勿論なり。扨其六経を読み明めむとするには必ず其一言一句をも審(つまびらか)に研究せざるべからず。一言一句を研究するには、文字の音義を詳(つまびらか)にすること肝要なり。文字の音義を詳にするには、先ず善本を多く求めて、異同を比讐(ひしう)し、誤謬を校正し、其字句を定めて後に、小学に熟練して、義理始て明了なることを得。譬へば高きに登るに、卑(ひく)きよりし、遠きに至るに近きよりするが如く、小学を治め字句を校讐するは、細砕(さいさい)の末業に似たれども、必ずこれをなさざれば、聖人の大道微意を明むること能はず。(中略)故に百家の書読まざるべきものなく、さすれば人間一生の内になし得がたき大業に似たれども、其内主とする所の書を専ら読むを緊務とす。それはいづれにも師とする所の人に随ひて教えを愛くべき所なり。さて斯くの如く小学に熟練して後に、六経を窮めたらむには、聖人の大道微意に通達すること必ず成就すべし。考証なしには六経に通ずることが出来ず、六経に通ずることが出来なくては、何に縁(よ)つて修養して好いか分からぬことになる、これを抽斎の本領と書く鷗外もまた同じような考証の学徒であったのだろう。
比讐(ひしう)、比はくらべる、だろう。讐は白川静の「常用字解」には載っていず、岩波の(母の遺品の)漢語辞典では「敵対する相手。あだ。かたき」とあり、「解字(字のなりたち)」として言+音符(讐の言の上の部分)で、二羽並んだ鳥。(平等ななかま)。言葉で対等にうけこたえする相手の意。とある。
ネットで調べるとデジタル大辞泉に、讐の意味として、仇や敵の他に、2 二人で読み比べて字句の誤りを正す。「讐校」という記載があった。
比讐は、二人でなくてもいろいろ読み比べて、ということではないだろうか。
引用部分には出てこない文字だが、面白い字があったので紹介する。
隆準、「りゅうせつ」と読んで「高い鼻」と言う意味だ。
準の「せつ」という読み方や意味は、白川「常用字解」にも岩波「漢語辞典」にも出てこない。
スマホに訊いたら出て来たのだ。
思いやりの道とでもいうのでしょうか、さしがねで長さを測るように相手のことを推し量るという意味になります。と教えられた。
【絜】は、漢音ケツ、意味は「はかる」、「きよい」、「たばねる」です。
【矩】は、漢音ク、意味は「さしがね」です。
これこそ、抽斎のもっとも大切にした考えであった。
今の日本の政治家に最も欠けているのも、この心ではないか。
ずっと前に「蝟集」という言葉を教えて頂いたなぞ思い返してたら いけない
たちまち百名以上の「不潔な議員の蝟集」のさまに占領されてしまいました
栗の湯の名前は残ったんですね 此処に住む方への贈り物ですね
コロナのせいでしょうか。ちょっと認知症にかかってしまった人も増えたのでしょうか。
森鷗外全集も捨てようかと思っていましたが、せめてこれを読んでからにします。
「絜矩」という言葉、難しいですね。私にも随分足りないものです。
庄司沙也香の動画も楽しかったですよ。