富士が見ている 「富士」(武田泰淳)

ブログの引用部分がはっきりしないので、ただでさえ分かりにくい文章がいっそう読みにくくなっている。
そうだ、表紙のデザインを変えようと思ったが、そんな簡単なことが簡単にできずに残り少ない人生の時を無駄遣いしてしまった。
さりとて、いつもが充実しているということでもない。
起きて、家事をして、ストレッチをして、飯を食って、ブログを読んで書いて、納豆喰って、あとは夕方まで本を読む。
習慣の奴隷は、習慣が(ブログの表紙ごときで)壊されるのが、自由の侵害のように感じるのだ。
奴隷でいることが自由ってこと?
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夕方の散歩はスマホの歩数計を見ながら、3千歩ほど歩く。
千歩歩くには、あの整形外科までいかなくては、とおもっていたら、その手前の橋で千歩達成、スマホのせいかと思ったら、僕の歩幅が狭くなって、よちよち歩きになっていたのだ。
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武田泰淳「富士」読了。
『海』に連載後、1972年に上梓された作品、60年代世界的ブームとなったバルガス・リョサ、ガルシア・マルケスを中心としたラテンアメリカ文学の影響を受けたのだろうか、精神病院を舞台に多彩な人物が、人間の精神と肉体、神(餌を与え・決める者)と神ならざるものとの境界、男と女、人間と動物、正常と異常などをめぐってスケールの大きな物語を紡ぐ。
大西巨人の「神聖喜劇」もいくたびか髣髴した。
エロ、グロ、ユーモア、哄笑もあり、長さを幸い、古本屋に払った数枚のコインで中身の濃い消夏術となった。
人類は平和人から戦争人に変身してしまったことじゃないか。誰もが防ぎ止めることの出来ない、絶対的傾向として、変身してしまっているんだ。平和人がもしも戦争人を狂気と呼ぶならば、戦争人だって、かならず平和人こそ狂気だと呼ぶにちがいないじゃないか。

生きているかぎり誰だって、せりふと仕草の何か一つを選ばなければならないし、選んでしまったからには、他のせりふと仕草を使うわけにはいかないのだ。

(誰にでも優しく接する院長の言葉)我々は、患者たちから誤解されることを、怖れたり避けたりしてはいけない。誤解されることこそ、当然なことなんだから、みずからすすんで、その誤解をひきうけなければならない。だって我々自身、常に患者たちを誤解し、誤解することによってのみ、彼らに近づいていくんだからね。こっちが向こうを誤解して暮らしているのに、こっちだけが相手の誤解にびっくりしたり、怒ったりすることはいけない。怒る。腹を立てる。いらいらする。それは、我々には許されない。ね、そうだろう。もしかしたら患者たちの誤解こそ、我々に対する真の理解かもしれないんだからね。彼らは、我々が自分自身では理解できていない我々の本質を、発見して教えてくれているのかも知れないじゃないか。
こんな風に、いくらでもイミシンな言葉を拾い出せる。
諸行無常とは「やさしさ」に通じるのか。
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政府はもう後戻りをしないのだろうか。
後戻りに見えて、じつは前進なのだが。





SNSにはユーモアとか機智に富んだ記事もある。


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by saheizi-inokori | 2022-08-01 11:22 | 今週の1冊、又は2・3冊 | Comments(0)

ホン、よしなしごと、食べ物、散歩・・


by saheizi-inokori