「途中」の価値
2022年 07月 27日
きのう洗濯して部屋干しでなんとなくじめっとしているのを山ほどベランダに干しなおす。
タオルケットなどを干すまでの小一時間ですっかり乾いて気持ちがいい。
雨が少なかったからかずっと蝉が鳴かなかったが、この間の雨で土から出る気になったのか急に耳にするようになった。
やはり夏は蝉、だよね、ヒマワリも欲しいけれど(あんなチンケな鉢植えなんかじゃなく)。
それから一列になってぐんぐん伸びたトウモロコシ、みんなこの辺では見ることができない。
トウモロコシは上のタケちゃんのうちからおすそ分けを頂いたのを茹でて食べている。
でもほんとは、外で七輪で醤油をつけて焼いたのを食いたい。
醤油と言えばピーマンを焼いて醤油をつけて食う、白いご飯にちょんちょんとつけて食う。
中の種につけた醤油がひときわ飯に合う、子供の頃のご馳走だった。
今喰ってもうまい。
東港のヤードで貨車解体事業をやった。
懐かしすぎて泣きそうになった。
テレビがあってよかったと思うことが多くなったよ。
唐木はアメリカンスクールの子供たちがスクールバスで通っているのを見て「便利というより気の毒だ」と思う。
然し家庭から学校までバスで運ばれる学童たちは、途中の楽しみといふものを喪つてしまつた。近代の文明は人間から次第次第に途中を奪ふ方向へ動いてゐるが、途中といふ距離を奪つて得た便利といふものと、途中を喪つてしまつた味気なさとを比べてみれば、はたしてどちらが幸福かは疑問であらう。田舎はどうかはつまびらかではないが、今の日本の都会の子供たちは、出来るだけ最短距離を最短時間で行き来することを求められて、その結果「途中」の恩恵に浴すことなく大人になって、大人になっても、周囲から効率効率!と尻を叩かれて、いつのまにか効率的に老人になってしまうのではないか。
、、、(中略)
この一見無駄な途中によつて、ほのぼのしたものではあるが、さまざまな人生経験がつまれていつたやうに思ふ。途中は目的地への最短距離ではなくて、少年たちの共通の広場であり、空想の楽園でもあり、遊びの場所でもあつた。ときには上級生の下級生への制裁の場所にもなり、教室から開放された悪童たちの腕のふるひ場所でもあつたが、それはそれなりの秩序をもつてゐた。教室で学びえないものを、おのづからにして学びとる場所でもあつたわけである。
まさに「味気ない」人生だ。
この連中も「途中」喪失の推進役だ。
政府が長年、認めてこなかった「旧統一教会」の名称変更が2015年に一転して認められた経緯に、特報部が迫りました。当時の下村博文文科相の「全く関わっていない」との説明に、批判が出ています。https://t.co/X7CJfoGr8S
— 東京新聞編集局 (@tokyonewsroom) July 26, 2022
ようやく毎日のように政治家と統一教会の許されない関係が暴露されるようになったが、その表面だけをみて、わあわあ楽しんでいてはならない。
彼らの蜜月の根っこには恐ろしい、共通の日本改造の狙いがあるのだ。
旧統一教会の関連団体は政治家を巻き込み展開してきた組織。その訳は
— こむぎ (@mugichoko1616) July 26, 2022
鈴木エイト氏「これはずばり国家復帰。その国の宗教を統一教会にするという意味合い。その為にその国の政治家を取り込んでいく」#news23 pic.twitter.com/XP3OwYZP1G
であるならば、僕たちはこういう政治家に消えてもらうことを声に出して要求すべきだ。
#岸防衛相の辞任を求めますhttps://t.co/oWLZH4UIUR
— 佐平次 (@saheiziinokori) July 26, 2022
まして、安倍国葬などは論外なのだ。
これで国葬?
— showbin (@yYsAGj0ff5oAvUN) July 25, 2022
国民の半数は税金使うなって言ってるんでは。 pic.twitter.com/MvJcHPci6B
ボヘミアンラプソディーを見て大人の男性が咽び泣く現象を 友人と不思議よねーと言っていた頃 オリンピックを誘致すると張り切っていた人たちがやっていたんですね。
かけよってハグしたくなる 懐かしすぎて泣きそうに。。
いいな 自分がsaheizi先生になった気で読ませて頂いています
自分は何をしてきてこの年になりここにいるのか これはちょい外において
= 矛盾について採用する思考停止の狡知、知って知らない無知を装う狡知
それをこれほど無意識に操作できる国民は日本人の他にあるでしょうか
10年前に読んだ本、上の癪な一行を痛感しつつ 周囲へ囁き大会敢行中です
絡んだ毒の網を取り除きたい!