慈悲の平等 「歎異抄」
2022年 07月 06日
しおたれた紫陽花に声をかけてきたのに、なんだい、ほとんど降らねえじゃねえか。
しょうがないからシーツとタオルケットを洗濯したぞい。
きのう、紫陽花たちを激励して帰ってきたら、玄関で三階の奥さんとばったり、「あのゴールドラッシュ、注文したから送ってきたらおすそ分けしますね」という。
せんじつ会った時に、あの美味しいトウモロコシ、何て言いましたっけ?取り寄せようと思うのです、きょねん友人が送ってくれた信濃町のトウモロコシをタケちゃんにおすそ分けしたのを、ことしも食べたいのだそうだ。
それで僕がブログで調べて、ゴールドラッシュという名と「熱湯で七分間茹でて、アチチと言いながらラップして、、」という食べ方もメモして玄関のノブにぶら下げておいたのだ。
「あ、そうそう、佐平次さんはお酒お飲みになりますか」という。「浴びるほど」と答えると「あの、お酒もらって頂けませんか、うちのは呑まないものですから、頂き物を」と「やあ、それは嬉しい、頂きます」。


見るともなく見たNHKテレビで、阿満先生が親鸞の教えを説いているのを聞いて、心がひきつけられてすぐにテキストを買ったのだ(テレビを見るつもりはなく)。
弟子の唯円(歎異抄を記した)が「念仏を申しても喜びの心は湧かないし、いそいで浄土に参りたいとも思わない」と訴えると、親鸞は「私も同じだ」と答える。

「南無阿弥陀仏」という「名」あるいは「音」(声)になっている仏で、阿弥陀仏が存在するのは、私が「南無阿弥陀仏」と口で称えるときだけなのだ。

若い頃、先日亡くなった葛西敬之(元JR東海会長)と酒を飲みながら「君は自力本願か」と訊ねられて「他力本願だ」と答えたら、軽蔑する目で「俺は自力救済だ」と言われたことを思い出す。

法然は「選択本願念仏集」の中で次のように言っている。
阿満教授の現代語訳で届けよう。
だから、はっきりと分かる。念仏は実践が容易であるがゆえに、一切の人々に通用する。諸行は実践が困難であるがゆえにすべての人々に通用することができない。しかれば、一切衆生をして、平等に往生せしめんがために、難しい諸行を捨てて、称名念仏の容易な行を採用して本願とされたのであろう。もし仏像を作り、塔を建てることをもって本願とされたならば、貧窮困乏のものは定めて往生ののぞみを断つことになろう。しかも、世には富貴のものは少なく、貧賤のものは極めて多いではないか。もし、智慧や優れた才能をもって本願とされたならば、愚鈍で智慧の劣ったものは、定めて往生ののぞみを断つことになろう。しかも、世には智慧あるものは少なく、愚かで道理が分からぬものははなはだ多いではないか。(中略)
だから阿弥陀如来は、法蔵比丘であった昔、平等の慈悲心に催されて、あまねく一切の衆生を救うために、造像起塔等の諸行をもって、往生の本願となされなかったのである。
ただ、称名念仏の一行をもって、その本願となされたのである。

だから、蓮如は「歎異抄」を秘匿した。
「歎異抄」が日の目を見たのは、明治時代の日本初の宗教哲学者といわれる清沢満之が、自分の求道を支える書として推奨したことによる。
「歎異抄」は「新しい古典」なのだ。
住職さんの説教を何度も聞きましたが、死んだ後は全て仏様、位の上下はないという話に少し宗教観が変わりました。
そして「南無阿弥陀仏」と唱えるのは「私が死んだら全てを仏様にお任せしますという意味で、それを心から唱えられるようになることだ」というのは私には無理でしたが、「一生懸命生きることが同じ意味だ」と言われて納得できました。一生懸命生きていれば死後の心配をしなくていいんです。死んでも札束を話したくない人たちが「門徒もの知らず」とバカにするわけです。


清沢が初代学長だった大学で、宗教を学んでいた頃、
先生たちの多くが、清沢満之の孫弟子で、清沢の話をよく聞きました。
鈴木大拙も清沢満之と同世代、この2人が活躍していた時代のことを思うと
ワクワク、ドキドキ、興奮したものです。
私が、何かにつけてアナーキーであるのは、その頃「歎異抄」を読んだからだと思います。
細部はすっかり忘れてしまいましたが…