業 「漂流物」(車谷長吉)
2022年 07月 05日
スマホの予報では12時から降り出す、それまでにかなり乾くだろう。

台風の備え、熱中症、コロナ対策、インフルエンザ予防、食中毒予防、スマホ不通、オレオレ詐欺、地震雷火事、隣国の侵攻、、。
子供の頃は、怖いのは母が死んじゃうことだけだった。
注意しなきゃいけないこと、怖がらなきゃいけないことが、どんどん増えて、安心できることがどんどん減ってきた。
こういうときに、本来なら頼りにしたい「お上」、そのてっぺんにいる与党、その背後にいるアベとか麻生などが、もっとも恐ろしく、信用ならない。
それなのに、こいつらについてはご注意を促さないテレビだ。
テレビの報道もかなり偏っていることに、ご注意ご注意!

そのなかで「抜髪」は、作家の母らしき女が土地の言葉で喋りつづける。
地の文章は一切なく、ひたすら車谷にたいする嘆き、愚痴、悪罵、教え諭しが果てしなく続いて圧倒的である。
ほう、あんた大学へ行きたいん。うちあきれてもたが。地道に働くんが、いやなんやな。ほう。わが身だけうまいもんが喰えたらそれでええ、いう気ィやな。
言葉ほど恐ろしいもんはあらへんで。どななことでも、いずれ自分が言うた通りになって、自分に返ってくるで。言うたらあかんで。閻魔はんやで。舌抜かれるで。
世ン中みて見な。みな自慢しとうて、しとうて。うずうずしとってやが。あれは最低の顔やで。みな自分をよう見せかけたいん。舌(べろ)まかしたいん。やれプライドしゃ、へちまじゃ言うて、ええ顔したいん。あんたも、ええ顔したいんやな。ほう。
あのローマのストア哲学の人ら、セネカやと、マルクス・アウレリウスやと。あの人ら日本語分かったんやろか。日本語読めたんやろか。それでなんで日本人の心が分かるんやろ。義理とお義理。情けとお情け。付き合いとお付き合い。このお一字が付くか付かへんかの違いが、分かるか。日本人やったら誰に説明してもらわんでも、分かるがな。このお一字が付くか付かへんかの微妙な違いが、深い違いが小学生でも分かるがな。(中略)
そのストア哲学を振りかざして、幸福論や。めんめらには手ェが出えへんもんを見せびらかして、人を威圧する幸福論や、あななもん人に読ませる方は、さぞええ気持ちやろけど、読まされる方は圧倒されてもて、暗い気持ちになるだけやがな。
家ン中のこと、洗い浚い書いて。さっぱりやないか。うちの里の親や、親様のことや、お祖父さんやお祖母さんや、妹や弟のことや、何もかも一つ残さず、洗い浚い書いて、うちはどないなるんや。みな同じ村ン中におんねでな。三日に上げず顔合わせねでな。あなな具合(ガイ)の悪いこと、何もかも余さず、有りのままに書いて、それも半分はうそを混ぜて書いて、それで私小説やと。反時代的毒虫としての私小説やと。何、小説における真は虚実皮膜の間にある。それなんじゃいな。何、小説は人が人であることの不気味さを書くもんやて。えッ。そななこと書かれたら、どもならんがな。あわてふためくがな。あんたは容赦なく書いとうやないか。一かけらも手加減を加えんと、書いとうやないか。血ィ流して、書いとうやないか。血みどろや。恐ろしいやないか。あんたは甲斐性なしの癖に、することは恐ろしい。子供の時からそうやった。

僕も言葉の鞭で打たれたような気持で読み続けた。
野球のテレビ中継はなかったので、逃げ出すことも出来ずに読み続けた。
読む方もしんどかったのだが、書く方はもっと苦しかっただろうと思う。
苦しくもあり、甘えもあっただろう。
甘えることで許されたのだろうか。

上昇することを母なるものに対する「裏切り」ととらえる車谷。
僕はその気持ちが少し分かるのだ。