開高健、きだみのる、永井荷風

ラジオをつけっぱなしでブログを書いていると、ときどき演歌がかかることがある。
フランク永井の歌とか灰田勝彦などが歌うような洋楽っぽい歌はいいけれど、きんきらの着物を着てコブシを利かせて歌う、いわゆるベタの演歌は苦手だった。
どれもみんな同じように聞こえるのが没個性的だとも思った。
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それが、さいきんはそういう歌も、あまり気にならなくなった。
どれも同じメロデイ、それがかえって予定調和で安心感を与えてくれるようだ。
若い頃は演歌が好きな老人なんてものにはなりたくない、あれはちょっと上等じゃないと思っていたのにね。
こういう節回しを好むDNAが身体に潜んでいて、この年になってようやく表にでてきたのか。
もっとも、あの湿っぽい、弱い女を強調するような歌詞の曲はだめだ。
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きだみのるの「気違い部落周游紀行」について、開高は、
明晰の産物であるが、また、真のハイカラとはどういうことであるかを示した一例である。ハイカラ趣味が進行するままに歩いていったら、きださんは山寺につきあたったのである。
と書いている。
新明解国語辞典(第6版)によれば、ハイカラとは、「(和製英語)(趣向が新しく)小奇麗で、気がきいていること」とある。
開高のいうハイカラとはずいぶん違うような気がする。
「高踏的な好奇心を自由気ままに満たそうとしたら、山寺につきあたった」とでもいうのか。

開高は、きだを語りながら永井荷風のことを思い出す。
ちょっと似たところがあるように僕も思った。
荷風こそハイカラではないか。

ところが、すぐに「けれど即座に私は相違をあげることができると思う」と書いて、岩波少年文庫の『昆虫記』(上・中・下)を例に挙げる。
きださんはそれを書き下ろしで書いているのだが、透明、柔軟な、凛然とした文章を駆使して少年たちのために現実を観察することの重要さ、注視の精神の緻密さ、無数の事実から一定の結論を導きだすまでに注意深い論理的な思考の操作をしなければならないことを説いている。荷風はけっしてこういう文章は書かなかった人である。
としている。
なるほど、と僕は思うのだ。
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Commented by olive07k at 2021-12-14 12:09
私も演歌・・そんなに 好きでは なかったのに(--)
この頃は キッチンで 美空ひばりの河の流れのように♪
口づさんでいる 自分に
亡き 母の姿のままだわ、、と
 ハタと気づくことが(_ _)
Commented by saheizi-inokori at 2021-12-14 13:32
> olive07kさん、ね、そうでしょ。日本人なのだなあ。
亡母は歌謡曲は好きじゃなかったのに。
Commented by rinrin1345 at 2021-12-14 16:57
外で作業をする時は必ずラジオをつけますが家の中ではTVの勝ちですね。。見なくてもつける癖があり、最近それをやめようと努力してますが、、、
Commented by saheizi-inokori at 2021-12-14 17:06
>rinrinさん、見なくてもつける!?
なんかの安心感でしょうか。
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by saheizi-inokori | 2021-12-14 07:39 | 今週の1冊、又は2・3冊 | Comments(4)

ホン、よしなしごと、食べ物、散歩・・


by saheizi-inokori