死んだのは俺なのか
2021年 11月 18日
ふたたび鈴木大拙とサリンジャーだ。
この句は禅師仏頂が「全てのものが創造される前の宇宙の景色について」問うたのに対する芭蕉の答えだ、と。
この句の狙いは、古池の静けさを強調するものとして水の音を詠んだというような「意識の尺度」自体を破壊し、人を意識の外側へ、思考不能の領域へ、あるいは無時間のある場所へと連れ去ることだという。
意識の外殻を突き破り、ずっと深い奥底、大文字(普通の心理学者が考えている小文字の無意識ではなく)の無意識へと進んでいく。
古池は永遠の向こう側に横たわっていて、そこに無時間という時間がある。
詩人に大文字の無意識を見通させてくれるのは、古池の静けさではなく、池に飛び込む蛙が立てた音なのだ。
言葉ではなくて音なのだ。
サリンジャーにあっては、『バナナフィッシュ』における若い男の「銃声」であり、『テディ―』における「悲鳴』が、「時間の流れを前提として成立する因果や論理の壁を破壊した「音」なのだ。
サリンジャーの作品とは、いわば「死者と生者のぶつかり合った音」の記録にほかならない。
その最良のページに響いているのは、もはや生者の声ではないし、だからと言って死者の声でもない、死者と生者が共に生み出す衝突音なのだ。
そして衝突の結果、生き残った者が死んでいった者にどのような「音」を聞かせてやるべきか、『ライ麦畑、、』のホールデンは、死んだ弟アリーにどうしてやればいいのか(葬式や墓参りなんかじゃなくて)?
「崖から落ちる(fall)子供を落ちる前に捕まえる(catch)」のではなく、会う(meetと妹は教える)、そして落ちた者(落ちることは避けられないのだから)を拾い上げるのだ。
妹のフィ―ビーにあげるはずのレコードを落としたらその欠片を拾い上げる。
妹はそれを受け取りポケットに入れるのだ。
拾い上げることで、それは別の「音」を奏で始める。
死者と生者の両者がいて初めて鳴り始める音を生み出しつつ生きていくのだ。
生き残った者も死んだ者であったこと、お互いに入れ替わりが可能(meet)であったことを知りながら生きていくのだ。
どちらが死んだのかは問題ではない死、至福の死を体験して生き残った者は、死者と入れ替わり可能な二者という新たな関係で結ばれる。
だから、フィ―ビーが回転木馬から落ちても心配はいらない。
生き残った者は、空白を抱えこんだ存在として、片足を引きづるようにして生きていけば良い、それはけっして茨の道などではない。 どことなく、抱いた死体を自分だという落語「粗忽の死者」を思い出す。
それとも異界の者たちと生きている「椿の海の記」(石牟礼道子)のみっちんか。
これはどうもサリンジャーの作品そのものを読まざあなるまい。
古池や蛙飛び込む水の音この句は古池の静けさを詠んだものではないと、大拙はいう。
この句は禅師仏頂が「全てのものが創造される前の宇宙の景色について」問うたのに対する芭蕉の答えだ、と。
この句の狙いは、古池の静けさを強調するものとして水の音を詠んだというような「意識の尺度」自体を破壊し、人を意識の外側へ、思考不能の領域へ、あるいは無時間のある場所へと連れ去ることだという。
意識の外殻を突き破り、ずっと深い奥底、大文字(普通の心理学者が考えている小文字の無意識ではなく)の無意識へと進んでいく。
古池は永遠の向こう側に横たわっていて、そこに無時間という時間がある。
詩人に大文字の無意識を見通させてくれるのは、古池の静けさではなく、池に飛び込む蛙が立てた音なのだ。
言葉ではなくて音なのだ。
サリンジャーにあっては、『バナナフィッシュ』における若い男の「銃声」であり、『テディ―』における「悲鳴』が、「時間の流れを前提として成立する因果や論理の壁を破壊した「音」なのだ。
サリンジャーの作品とは、いわば「死者と生者のぶつかり合った音」の記録にほかならない。
その最良のページに響いているのは、もはや生者の声ではないし、だからと言って死者の声でもない、死者と生者が共に生み出す衝突音なのだ。
そして衝突の結果、生き残った者が死んでいった者にどのような「音」を聞かせてやるべきか、『ライ麦畑、、』のホールデンは、死んだ弟アリーにどうしてやればいいのか(葬式や墓参りなんかじゃなくて)?
妹のフィ―ビーにあげるはずのレコードを落としたらその欠片を拾い上げる。
妹はそれを受け取りポケットに入れるのだ。
拾い上げることで、それは別の「音」を奏で始める。
死者と生者の両者がいて初めて鳴り始める音を生み出しつつ生きていくのだ。
生き残った者も死んだ者であったこと、お互いに入れ替わりが可能(meet)であったことを知りながら生きていくのだ。
どちらが死んだのかは問題ではない死、至福の死を体験して生き残った者は、死者と入れ替わり可能な二者という新たな関係で結ばれる。
だから、フィ―ビーが回転木馬から落ちても心配はいらない。
生き残った者は、空白を抱えこんだ存在として、片足を引きづるようにして生きていけば良い、それはけっして茨の道などではない。
それとも異界の者たちと生きている「椿の海の記」(石牟礼道子)のみっちんか。
これはどうもサリンジャーの作品そのものを読まざあなるまい。
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doremi730 at 2021-11-18 16:24
目から鱗の「蛙飛び込む水の音」解説でした(@@)
亡くなって随分経つ、母や兄弟や主人が、割とよく
夢に現れ、会話するのは、私と入れ替わろうとしている?
亡くなって随分経つ、母や兄弟や主人が、割とよく
夢に現れ、会話するのは、私と入れ替わろうとしている?
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saheizi-inokori at 2021-11-18 22:15
> doremi730さん、いつでも入れ替われるということは、実はすでに入れ替わっているのかもしれませんよ。
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miyabiflower at 2021-11-18 22:21
「ライ麦畑でつかまえて」は学生の頃読みました。
ホールデンの妹のフィービーが、割れたレコードを大切に持っているエピソードが
とても好きでした。
もちろん今でも・・・。
弟のアリーのお墓で傘をさすフィービーも心に残りました。
アリーが濡れないように・・・と。
生き残った者と死者・・・
そういう視点でまた読んでみようと思います。
村上春樹さんの翻訳も持っていますが
やはり何度も読んだ野崎孝氏の白水社版にしようと思います。
ホールデンの妹のフィービーが、割れたレコードを大切に持っているエピソードが
とても好きでした。
もちろん今でも・・・。
弟のアリーのお墓で傘をさすフィービーも心に残りました。
アリーが濡れないように・・・と。
生き残った者と死者・・・
そういう視点でまた読んでみようと思います。
村上春樹さんの翻訳も持っていますが
やはり何度も読んだ野崎孝氏の白水社版にしようと思います。
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saheizi-inokori at 2021-11-19 09:20
by saheizi-inokori
| 2021-11-18 11:31
| 今週の1冊、又は2・3冊
|
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