死者たちよ 「貝に続く場所にて」(石沢麻依)

芥川賞を受賞した「貝に続く場所にて」を読了。
晦渋、もってまわった文章にてこずったが、どこか詩を読むような気配もあった。

伯林と書いてベルリン、月沈原はゲッティンゲンだ。
かつて独逸に留学した寺田寅彦は、月沈原にも滞在している。
石巻で津波に流されていまだに見つからない野宮の幽霊がゲッティンゲンに現れたのは、そこが寺田のいた場所だということもあるようだ。
野宮(「三四郎」の野々宮を想起させる)は、寺田の幽霊とゲッティンゲンで、親交をあたため、漱石を思わせるようなウルスラの木曜会にも参加する。

私は、9年ぶりに会った野宮をちゃんと迎えられない。
それは、彼が行方不明になってから、きちんと彼を観ようとしなかった、傍観者であり続けたことの罪悪感があるから。
この感じは、今の僕にもある。
時間の隔たりと感傷が引き起こす記憶の歪みを怖れていた。
そのときに忘却が始まるから。
死者たちよ 「貝に続く場所にて」(石沢麻依)_e0016828_07452903.jpg
ゲッティンゲンは第二次世界大戦におけるジエノサイドの舞台でもあった。
街には歴史の記憶が現となって死者が行き交う。
人びとは、過去の悲しみや苦しみを物に仮託して記憶する。
宗教画で描かれる聖人の痛みを象徴する持ち物(アトリビュート)のように。
聖ヤコブは貝殻。

ゲッティンゲンの街中に配置されている太陽系の模型「惑星の小径」の冥王星は、森の中にあり、冥王星が惑星から外されたときに、そこからプランク研究所の近くに移されたのに、いつのまにか、元の位置にも(同時に)存在する。
そして、トリュフ犬・ヘクターは、トリュフならぬ、人びとの記憶の持ち物を掘り出すのだ。

木曜会のメンバーは、ほんとうに冥王星が元の位置にもあるのかを確かめに歩く。
生者と死者、過去と現在が、境界をなくして交錯する。
私は、惑星めぐりを経て、9年の時間の存在感を野宮の中に見いだし、初めて野宮の口から両親と妹は(陸に)還れたけれど、泳ぎの下手だった弟が戻っていないことが気にかかるという言葉を聞きだす。
野宮はトリュフ犬が掘り出した帆立貝の貝殻を自分と弟が故郷に戻るためのお守りとして持っている。
それは、野宮の母が、なにかというと食卓に出してくれた帆立貝、野宮の痛哭の記憶の持ち物なのだ。
死者たちよ 「貝に続く場所にて」(石沢麻依)_e0016828_07460920.jpg
亡母、亡妻、亡父、、亡き人びとのアトリビュートはなんだろうか。
僕はほんとうに彼らの死(生)と、向き合ってきたのだろうか。
夢でも幽霊でもいいから出てきて話を聞かせてほしい。
死者たちよ 「貝に続く場所にて」(石沢麻依)_e0016828_11262738.jpg


Commented by baobab20_z21 at 2021-08-13 12:52
↓の記事で、詩のような美しさを感じる文章だなと思ってました。
あの福島や死者と向き合えているだろうか?は身をつまされる思いです。私なんて普段、権力を批判してはいるものの(原発とか)、本当に身を引きちぎられるような思いをした人々(死んでしまった人を含め)は、そんな権力とかとは、無関係に避けては通れない道を歩いているのだから。
Commented by saheizi-inokori at 2021-08-13 17:29
> baobab20_z21さん、逝ってしまった人のことを、とくにそれほど親しくはなかった人のことを、どれほど考えることができるのか、テレビの映像ではわからないことがたくさんあるのでしょうね。
Commented by maru33340 at 2021-08-14 10:11
私もこの作品を読了しました。硬質の文章に少し苦労しましたが、読み応えのある小説でした。
再読したいと思っています。
Commented by saheizi-inokori at 2021-08-14 10:53
> maru33340さん、たしかに再読したくなりますね。
分かりにくいけれど、心の底に訴えかけてきます。
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by saheizi-inokori | 2021-08-13 09:21 | 今週の1冊、又は2・3冊 | Comments(4)

ホン、よしなしごと、食べ物、散歩・・


by saheizi-inokori
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