詩人・茨木のり子の力 「隣の国のことばですもの 茨木のり子と韓国」
2021年 05月 26日

自己理解から始まる他者理解の実践のために、自分が属している社会をより大きな視野にいれて考えようとする際、隣国との関係は欠かせないものである、と同時に朝鮮は自己のルーツでもある。
獄中にある金芝河の救出活動よりも「日本の詩人がやるべきことは、まず彼の詩を読むこと、いいにしろ悪いにしろ、きちんとその詩を批評することではないですか」という安宇植の言葉が、彼女の心に「まっすぐ届いた」。
当時日本には韓国の詩を訳せる詩人は一人もいなかったのだ。
1976年、50歳の時にハングルを習い始めた茨木のり子は、14年後に、訳詞集「韓国現代詩選」を出版する。
「自分の気にいった詩だけ」、12人の韓国現代詩人の作品62篇を訳したアンソロジー。
その翻訳は、原詩の内容を一言一句忠実に訳すより、自分の詩想に合わせて詩句を省略するなどの大胆な翻訳方法を試みたもので、意味の伝わりやすさを際立った特徴とする。
本書はその実例をいくつか丁寧に解き明かす。

2009年にコン・ソンオク、2011年シン・イヒョンという人気作家が、茨木の「わたしが一番きれいだったとき」に大きな影響を受けて同名の小説を書き、2017年には茨木の「わたしが一番きれいだったとき」が単著として出版されると、彼女の作品は韓国で本格的に読まれるようになった。
金は
どの社会にも転換の時期が訪れるが、大切なのは変化に翻弄されずに正しく身を立てること、それが茨木の詩の言葉の本質的なあり方であり、そこにこそ彼女の詩の原型があるに違いない。茨木のメッセージは激変する韓国社会でアクチュアルなものとして響き、それゆえ人々の心を打ったのである。と書いている。
ひとりの日本人の生き方とそこから生まれた詩が言葉の違いを乗り越えて隣国の人たちの心を動かした!
思えば感動的なことではないか。

人見知りをするけれど、まっすぐにかつ優しく人に接する。
高橋順子が、茨木の「人名詩集」は井伏鱒二の「厄除け詩集」に触発されて書かれたことを、茨木が言うまで気がつかなかったことを悔しがったことから、書き始めて、
花の名を書く人は、もののひとつひとつをいとおしむ人であり、花を「花」とだけ書く人は、いつでもものの本質を突いてくる人であった。茨木さんはどちらの型かというと、両方の合わさった型で、具体的なところから本質を突いてくるのだ。(略)などと書いていて、そんなところをあちこちツマミ読みしたというわけだ。
(人名についていうと)茨木さんはあえて具体的な名を登場人物に与えた。現実のざわざわしたところに、じつは詩の輝きもユーモアも哀しみも宿っているのだが、それは力を込めてとりださねばなるまい。

下駄をつっかけてふらっと入るような近所の小さな本屋に。
そんな本屋はもう10年も前に閉まっているのに、抑えるのに苦労するほど強い衝動だった。
「韓国現代詩選」を図書館に予約した。

日本は危ないから行っちゃいけないよ、でもオリンピック関係者だけは大丈夫とアメリカに言われて、喜んでいるように見えるインベーダーたち。
緊急事態宣言の延長期間もオリンピックとの兼ね合いで決めるらしい。
そんな宣言をつぶれそうな飲食店の誰がまじめに守ろうとするのか。
これまで1000万都市の東京都における検査数は最大でも1万件台止まりであるのに、何故オリンピック関係者には何万件も検査出来るのか。出来るなら何故今に至るまで実施していないのか。この国の主権者は市民であってオリンピック貴族ではない。これでは身分制社会ではないか。
— 異邦人 (@Narodovlastiye) May 25, 2021

信州でよその木から直にもぎ取って食べた青い梅の味まで思い出してるの。
序詞には、何度読んでも胸がふるえます。
なぜ、この人が獄死しなければならなかったのか、と。
高校のときの担任に、詩を書いていますと自分の所属詩誌を送ったら、
「石垣りんの詩は、スローガンだ!」と返事をもらったのを憶えています。
担任は英語が専門で、英詩のように韻を踏んでいるのがよいというようなことが書かれていたと思います。すでに亡くなられましたが、詩の感じ方や、生活のなかでの詩の位置はそれぞれ違うのだと感じたことが忘れられません。
言葉を知ることはその国の心を知ることだから・・・そう言って日本に留学していた隣国の人のことも思い出しました。