気がついたといえば、孫の二人が新成人だった。
タイキがパパのデザインした洋服を着て近所の同年の娘さん(晴着姿)と並んでいる写真をママが送ってくれた。
式典はないそうだ。
ユイは北海道から帰省中だが、やはり式典はなく着物を着るのには「あまり興味がない」そうだ。
ひとなみに孫を可愛く思っているのに、その成人になるのをすっかり忘れていた。
成人の日および式典にさしたる意義・興味を持たなかったことと、僕の成人は大学3年の時だったから、それでまだだと思っていたのだ。
気持ちだけお祝いを送った。
成人の日は本人よりも親がお祝いを貰うべきなのかもしれない。
でも両方にお祝いを送るほど爺さんはゆとりがないのだ。
よしなに、ね。

11年前発行の初版が、新本のようにきれいだということはあまり借り出す人がいなかったのか。
1980年ころに書かれた、アメリカ、アイオワとニューヨークから20世紀初頭くらいのディストピア的に想像された二つの都市を舞台とする、作者自身の自叙伝的要素もあるSF小説だ。
最近はめっきり見なくなった飛翔する夢。
小説の世界では「飛ぶ」=幽体離脱が行われている。
装置の中で自分の選ぶ(歌う)音楽とうまく一体化(というのか?)すると飛んでフェアリーになる。
主人公は、飛びたくてそのために音楽を習得しようとする。
だから音楽について書かれた小説でもあり、飛ぶことを禁じる州(アイオアなど)とそこの宗教や人々のものの考え方が描かれるアメリカ風俗小説でもあり、作家がそうであったように主人公もバイセクシャルであるゲイ小説でもある。
飛ぼうとして果たせず田舎の歯医者である夫(つまり主人公の父)のもとに戻った母、旧弊な田舎の人々、少年・主人公は(一応は)禁じられているミネソタの(猥褻な広告が載っている)新聞を配達して、彼を憎悪する警察署長に咎められ刑務所に入れられる、そこで出会う人々、解放後の学校の教師、富豪・大農場主―美徳も悪も上流階級の持つ特権だ、公正さとは正義についての甘ったれた見方、浮浪者の見方だなどという―と恋人になるその娘、オペラ劇場の人々、、数奇な運命で遭遇する人々や風俗がそれぞれ興味深いキャラクターで生き生きと描かれる。
黒人が政治的にも社会的にも多数派になり始めた都市では、肌を黒く染め、髪をチリチリにする似非黒人(フオウ二―)が多くなる、とかね。
語り口に慣れないさいしょの4分の一はかったるく感じたが、我慢して読んでいるうちに小説のなかに引き込まれて、残りは一気に読んだ。
僕は飛べたようだ。
作者は「大型画面総天然色のスペクタクル映画」のような空を飛ぶ夢をときどき見たことがこの小説を書くきっかけだったという。
僕がかつてよく見た「飛ぶ夢」も天然色が多かった。
両手を羽根のようにバタバタやって飛ぶのだった。
僕だけが飛べて、皆は飛べないのだ。
恋人を歌の翼に乗せて、遠くの楽園に連れて行きたいという、ハイネの詩から本書の題名が取られた。
この歌を久しぶりに聞いてみたら、とても懐かしい。
子供の頃のなんの不安もない幸せな気分がふわっと湧いて過ぎていった。
なんの思い出と結びついているのだろう。
友枝康子 訳
国書刊行会
式典があったら、タイキ君はウチのさゆりんと同じ会場にいたんだナなんて思いました(^^ゞ
ユイさんはsaheiziさんが時たま書かれていたことからして、
saheiziさんのお孫さんらしい私にはその成長がとても楽しみなお嬢さんです。
…と、他人様のご家族も自分の身内のように感じてしまうって
ブログ世界は不思議ですね(^^ゞ
お孫ちゃん、二人成人だったのですね。
おめでとうございます♪
私もお姉ちゃんの成人式の着物姿は見たいと思っています。
今中三だから、後5年?
その頃は、コロナの心配は無くなっていてほしい。
オンラインばかりの学生生活でも友達はできたようです。
コロナじゃなきゃ、祝賀会できますのにね、、、
私は孫が成人した2年前、お祝いをあげると誘い出し
息子と三人で痛飲!
息子や私よりも酒に強いので驚き、頼もしく(^^;
