草餅が人生に救いをもたらした
2021年 01月 10日
名古屋の支店にいた僕は、本社の方針に反することを言ったために定期異動を待たずに小会社に飛ばされた。
受け入れる方が、来てもらっても仕事がないから少しブラブラしていてくれというのを無理矢理受け入れてもらった。
それまで家族と住んでいた社宅も出なければならなくなって、子供の進学もあったので家族は東京に移し、一人で独身寮に住むことになった。
その引っ越しの朝、がらっと玄関の戸を開けて「おはようございます」という声、続いてドシンと物を置く音。
大垣の奥に住むUさんが、にこにこ笑っていた。
草餅をついてきたから、引っ越しの食事にしてくれ、半分は東京に持って行って東京の人たちにも食べてもらってくれ、という。
3月、雪の下からヨモギを摘んだのかもしれない。
夜明け前から餅をついたのだろう、まだ柔らかなつきたての餅が団子にして二段の箱に入っていた。
当時の引っ越しは職場の人たちが大勢で手伝いに来てくれるのだが、一段落した昼休みにこの餅を出した。
見納めになる社宅の縁側にならんで皆の顔が笑顔になった。
東京で義母にその話をして餅を出したら、「いいところで仕事をしたんだね」と涙をこぼした。
Uさん、地元のタタキ上げの大ボスで、大学出のエリートが大嫌いだったが、なぜか僕だけは仲良しで遅くまで二人で飲んで歩いた。
「俺だって大学出てるんだぞ」というと「あんたは、違うもん」と、それを最高の褒め言葉だと思った。
肝臓の数値が異常に悪くなったのにぎりぎりまで医者にいかず60そこそこで逝ってしまった。
豪放に見えて細心、むしろ小心な面もあり、医者に行くのが怖かったのだと思う。
大垣の自宅で営まれた葬儀には田舎の道に一キロ以上の行列ができた。
あの草餅こそ、我が人生のご馳走だった。
このことは7年ほど前にも記事にした。
昨日、ふとしたはずみで、あの引っ越しが、その後の僕の人生の重大な岐路になったことに思い当たった。
飛ばされた子会社で現場第一を身に染みて体験して、エリートとしてふわふわ生きるのではなく現場の人たちのために、どんなエライ連中に対してでも云うべきことを云い、やるべきことをやることが、自分の生き方であることを改めて確認したのだ。
そのスタートだった。

去年の引きこもり中に来し方を顧みて、反省すべきことばかり思いだして、俺の人生は何だったのか、と暗い気持ちになる日が多かった。
しかし、あの草餅を食って、それ以後の本社に戻ってからの激動のなかで、自分の使命を第一にして独裁的権力に抗って、弱い人たちのためになることをやり通した。
本社の大会議の席上、その権力者に「共産党」呼ばわりもされ、以後の会議への出禁を食らい、再び小会社に飛ばされもした。
でも僕がそれだけのことをやらなかったら、もっと困っている人がたくさんいるはずだ。
そのことは、自分は悪い、ろくでもない奴だが、まるっきり悪いことばかりしてきたわけでもなかったということにも思い至らせるのだ。
草餅の陰にいる人たちのために生きなかったら、俺ってなんぼのもんじゃ、そう思っていたのだ。
やっぱりあの草餅は人生の時のご馳走であった。

思うようには生きて来られませんでしたが、この考えは何かを判断するときの基準にはなってきました。
saheiziさんに助けられた人は多かったのでしょう、だから今でも人望がある。みんなのために100歳でも200歳でも生きて発信し続けてください、後悔しないために。
早朝から草餅を搗いて下さった大ボスさんは
saheiziさんに感謝とメッセージを込められ
saheiziさんはそれをしっかり受け取られて
弱者を守り続けられた!!
その片鱗が今も♪
きっと私の人生も変わっていたように思えて来ました
今ふと外を見たらぽっかり浮かんだ雲がピンクに染まっています
いいお話しと言い景色このままボーッとしていたいです
とても真似できないでしょうが心に収めて生きようと思います。

ちなみに、私は本来右利きでありながら、鍬と杵の持ち方だけはギッチョのため、アイノ手を入れる母の右肩によく杵をぶつけては怒られたものです。
ちなみに、私の田舎では、草餅は必ず餡子入りの丸餅にて、通常は熟した夏豆(ソラマメ)を使った沪し餡で、(貴重な)小豆を使った粒餡はごく稀だったような・・・。
直言するというのは胆力を試されますね。
佐平治さんの生き方の元が草餅だったとは!!
理解してもらったと心から思う人たちに支えられてきたのですね。
草餅を作るのは大変な手間暇かかります。
それでも佐平治さんにもっていきたいというその心意気が伝わってきます。
善き人には善き人たちが集まる。
佐平治さんは、肝が据わっていますね。
ご家族の支えも相当なものです(^_-)-☆


昨日餡の中で何が一番私は好きなのだろうかと問われれば、実は草餅なんだと気が付きました。生活クラブ生協のを2回立て続けに注文して昨日もやってきました。
saheiziさんの周りの人の人生のご馳走と時代と状態は違うけれどもひょんなところで合致しました。ピント外れですが。
亡き義母が作ってくれたのもうまかったです。
というより八ヶ岳で一緒にヨモギを摘んだことがいい思い出になっています。