ガンバリル大掃除&世田谷美術館「沿線物語」お一人様貸切プレゼント
2020年 12月 26日
今朝は血圧二度計測の平均が152、きのう170を超えても医師が驚かず頓服も処方しなかったことが、自信になっている。
夕べ寝るときも147が出たし、あまり気にしないで塩分控えめと運動でいこう。
とはいえ坐骨神経痛と変形した膝関節の炎症をケアしつつではあるが。 というわけで、天気もよし、膝にサポーターをして大掃除、先週の本棚の天辺に次ぐ今日のスペシャルは、寝室の窓ガラス周辺。
なんの目的で作ったのか、窓の内側の腰のあたりまで固定されたガラスの衝立があって、その向こうの窓に手を入れにくい上に、結露が凄いので真っ黒にカビがあるのが、なおのことちょこちょこっときれいにし難くて、悲惨なことになっている。
毎日見ないふりをしていたが、けさマジマジと見て、怖気をふるいながらも、、まずはヨイショとベッドを動かし、ブラシや「驚くほど汚れが落ちる」類のペーパーを何種類か用意する。
やればやっただけ、前よりきれいとまではいかなくても、普通になっていく。
つけていることを忘れるほどぴったりする使い捨てのビニール手袋をはめてみて、ああ、こんないいものがあるんだと感心する。
汚れ落としのペーパーやブラシも便利なものだ。
必ず思いだす子供の頃の大掃除、素手を真っ赤にして新聞紙と雑巾だけで掃除をした母や弟そして自分までがいとしく感じられる。
スペシャルもいれて4時間、でも汗をかくことはなかった。
子どもの頃はあの寒い長野で汗をかいて身体から湯気が出ていたのに(寒いから湯気が出たのか)。
ガンバリル、がんばるをそういったのは子供たちだったか。
きのうの世田谷美術館「美術家たちの沿線物語 田園都市線・世田谷線編」。
長野育ちが東京に出てきて、渋谷の近くの学生寮に住んで、井の頭線はしょっちゅう利用したが、新玉電(今の田園都市線)はそれほど利用する機会はなかった。
隠居して桜新町の近くに住んだ今は、もっとも利用機会の多い線路になった。
その沿線、三宿あたりから始まり三軒茶屋、松原、駒澤大学、桜新町、瀬田、二子玉川の「あたり」に住んだ美術家、平福百穂、麻生三郎、竹久夢二、今西中通、向井潤吉、林二郎、緑川廣太郎、高橋秀、野尻抱影、志賀直哉、長谷川町子、池辺一郎などの作品やゆかりの品、たとえば夢二が自ら設計して住んだ「少年山荘」の50分の一の復元模型などが展示されていた。
簡単に彼らの来歴などが紹介されている。
僕のように田舎から出てきた人が多い。
その頃は東京の田舎、田園というより田畑と山林が広がる世田谷、武蔵野の面影を佳しとする人もいただろう。
玉電は1907年(明治40年)に玉川・渋谷間に開通、多摩川の砂利を都心に運ぶために「ジャリ電」と呼ばれていたという。 苦しんで苦しんでやっとそれなりの画境に到達するかどうかというところで夭折していった人もいる。
芸術家同士で助け合うなど交友を深めている例もある。
桜新町の「はじめ」の少し渋谷寄りの新町には志賀直哉や野尻抱影、林二郎、緑川廣太郎などが住んで、野尻の天体観測会には志賀が顔を出し、林は志賀のために家具を制作し、緑川は志賀の小説の装幀や挿絵をたくさん描いた。
志賀が住んだ場所を探して歩いたが、まだ特定できずにいる。
桑原甲子雄の世田谷ボロ市(昭和11年)のブロマイド、古時計、タバコ、蕎麦屋、瀬戸物、掛け軸、電蓄などを売る茣蓙、昭和51年、62年、平成4年ころの太子堂、三軒茶屋、馬事公苑、上用賀などの写真が一枚一枚、懐かしい。 足が自由だったころにはときどき散歩した多摩川べりの水彩スケッチ、いいなあと近寄ると池辺一郎の15点、昭和15年の姿だった。
夕べ寝るときも147が出たし、あまり気にしないで塩分控えめと運動でいこう。
とはいえ坐骨神経痛と変形した膝関節の炎症をケアしつつではあるが。
なんの目的で作ったのか、窓の内側の腰のあたりまで固定されたガラスの衝立があって、その向こうの窓に手を入れにくい上に、結露が凄いので真っ黒にカビがあるのが、なおのことちょこちょこっときれいにし難くて、悲惨なことになっている。
毎日見ないふりをしていたが、けさマジマジと見て、怖気をふるいながらも、、まずはヨイショとベッドを動かし、ブラシや「驚くほど汚れが落ちる」類のペーパーを何種類か用意する。
やればやっただけ、前よりきれいとまではいかなくても、普通になっていく。
つけていることを忘れるほどぴったりする使い捨てのビニール手袋をはめてみて、ああ、こんないいものがあるんだと感心する。
汚れ落としのペーパーやブラシも便利なものだ。
必ず思いだす子供の頃の大掃除、素手を真っ赤にして新聞紙と雑巾だけで掃除をした母や弟そして自分までがいとしく感じられる。
スペシャルもいれて4時間、でも汗をかくことはなかった。
子どもの頃はあの寒い長野で汗をかいて身体から湯気が出ていたのに(寒いから湯気が出たのか)。
ガンバリル、がんばるをそういったのは子供たちだったか。
長野育ちが東京に出てきて、渋谷の近くの学生寮に住んで、井の頭線はしょっちゅう利用したが、新玉電(今の田園都市線)はそれほど利用する機会はなかった。
隠居して桜新町の近くに住んだ今は、もっとも利用機会の多い線路になった。
その沿線、三宿あたりから始まり三軒茶屋、松原、駒澤大学、桜新町、瀬田、二子玉川の「あたり」に住んだ美術家、平福百穂、麻生三郎、竹久夢二、今西中通、向井潤吉、林二郎、緑川廣太郎、高橋秀、野尻抱影、志賀直哉、長谷川町子、池辺一郎などの作品やゆかりの品、たとえば夢二が自ら設計して住んだ「少年山荘」の50分の一の復元模型などが展示されていた。
簡単に彼らの来歴などが紹介されている。
僕のように田舎から出てきた人が多い。
その頃は東京の田舎、田園というより田畑と山林が広がる世田谷、武蔵野の面影を佳しとする人もいただろう。
玉電は1907年(明治40年)に玉川・渋谷間に開通、多摩川の砂利を都心に運ぶために「ジャリ電」と呼ばれていたという。
芸術家同士で助け合うなど交友を深めている例もある。
桜新町の「はじめ」の少し渋谷寄りの新町には志賀直哉や野尻抱影、林二郎、緑川廣太郎などが住んで、野尻の天体観測会には志賀が顔を出し、林は志賀のために家具を制作し、緑川は志賀の小説の装幀や挿絵をたくさん描いた。
志賀が住んだ場所を探して歩いたが、まだ特定できずにいる。
桑原甲子雄の世田谷ボロ市(昭和11年)のブロマイド、古時計、タバコ、蕎麦屋、瀬戸物、掛け軸、電蓄などを売る茣蓙、昭和51年、62年、平成4年ころの太子堂、三軒茶屋、馬事公苑、上用賀などの写真が一枚一枚、懐かしい。
一時間半ほど見ている間に各部屋のスタッフ以外、誰にも会わなかった。
クリスマスに美術館お一人様貸し切りプレゼントとは豪勢ではないか!
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jyariko-2 at 2020-12-26 15:35
今日はとても暖かい日となりました
体がとても楽なのに 腰痛で暮れの仕事も長続きでずあ~あです
拝見していて兄の事思い出していました
自転車で東京の何やらを調べていました
体がとても楽なのに 腰痛で暮れの仕事も長続きでずあ~あです
拝見していて兄の事思い出していました
自転車で東京の何やらを調べていました
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saheizi-inokori at 2020-12-26 17:16
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at 2020-12-26 21:16
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
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saheizi-inokori at 2020-12-26 21:48
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doremi730 at 2020-12-26 23:48
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saheizi-inokori at 2020-12-27 05:24
> doremi730さん、私も椅子の上に乗って台所の蛍光灯管を取り替えましたよ。
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j-garden-hirasato at 2020-12-27 07:45
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saheizi-inokori at 2020-12-27 11:09
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福
at 2020-12-27 15:51
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志賀直哉は転居が多くて23回とか・・・
渋谷にも旧居跡がありました。
『濠端の住まひ』(この時は松江住まい)では「パン、バタ、紅茶、生の胡瓜、ラディシュの酢漬け」といった西欧風の食生活を営んだようです。
渋谷にも旧居跡がありました。
『濠端の住まひ』(この時は松江住まい)では「パン、バタ、紅茶、生の胡瓜、ラディシュの酢漬け」といった西欧風の食生活を営んだようです。
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saheizi-inokori at 2020-12-27 18:58
by saheizi-inokori
| 2020-12-26 14:06
| こんなところがあったよ
|
Comments(10)