柳田国男の本願 「小説をめぐって 発掘エッセイ・セレクション」(井上ひさし)

二時ころに目が覚めて、志ん生の「締め込み」を聴いた。
文楽(八代目)などの音源はあるけれど、志ん生のは希少で(寄席ではやらなかった)、これ一つしかなかったと玉置宏。
寄席でいろんな人のを聴いているが、その誰よりもあっさりと短くやる志ん生。
でも、いいんだな、早とちりの亭主も、口じゃ負けていない女房もお互いが好いた同士なるが故の喧嘩、床下でそれを聴いていた泥棒の人の良さ。
いかにも落語だぜ。
グダグダと二時間近く落語を聴いて、ああ、もう今夜はこのまま朝か、と思っているうちに夢のなかへ、探し物を見つけに入って、目が覚めたらもう七時。
自分のシーツやホーフなどを洗濯、これが探し物だったのか。
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パン屋に行く途中の図書館で予約した、井上ひさしの「発掘エッセイ・セレクション 小説をめぐって」と「民衆暴力ー一季・暴動・虐殺の日本近代」(藤野裕子)を受け取る。
都立大学前のカフエで、さっそく両方を読んでみて、井上ひさしを先に読むことにする。
発掘、新聞・雑誌などに載ったけれど、著書としてまとめたものに未収録だった作品、これぞ鉱脈から発見された「お宝エッセイ」とカバーの袖にある。

「廈という名の読み方について」という文章が前書き代わりにおかれる、今年の七月出版だもの、本人はもういないものね。
麻垂れに夏、廈で「ひさし」と読むのが彼の本名、誰もちゃんと読んでくれなかった、中には「ゾウリ」と読んだ役人もいたそうだ。
ラジオの仕事のときはこれでよかったが、テレビの仕事だと、ドタバタ笑劇と廈では、水と油、ひらがなにした。
平仮名は軽々しい、文学全集には載らないよ、と忠告してくれる人もいたが、書きたいことを書いてるので文学全集に載せようと思って書いてるんじゃないと、開き直って、日本文学の重々しさの虚を衝くつもりでやってきた。
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たしかに重厚とか晦渋、深刻などとは無縁の軽妙洒脱な小説やエッセイを楽しませてもらった。
「モッキンポット師の後始末」とか「青葉繁れる」とか大笑いして読んだことが懐かしい。

しかし「難しいことをやさしく」教の宗祖だけあって、権威を笑いのめし、とくに自虐的な筆致を多用して表現されている「軽いエッセイ」とか「書評」も、じつは深く、たくらみに満ちていて、油断できないのだ。
油断できない手品を見るようなスリルもあるけれど。

柳田国男「不幸なる芸術・笑の本願」の解説「柳田国男への挨拶」。
この小文は、柳田国男という巨鯨の沖で潮吹くのを、三里も離れた陸地から眺めてものをいうようなもので、隔靴掻痒どころか、まるで空振りに終わってしまうにちがいない。
と、いつもの自虐節で書き出して、「なぜ私だけでなく、多くの人が柳田国男について書く時は、或る定型の枕をふるのか」と疑問を提出、その例として、柳田国男を特集した雑誌の収録論文二十編のうち七編がふっている「私が読みえたのは、彼の厖大な著作のなかのほんの一部分に過ぎない」のような定型枕を列挙する。
柳田国男が拾い集めたものは、ほとんど日本常民の全歴史に等しいくらいであるから、そういう巨きなものに向かったら、頭を垂れて挨拶するのは当然だとしても、挨拶したくなるような相手だからつい挨拶の枕をふってしまう、では幼稚園児の言い草である。

そこで柳田国男の文章を読んで考えを深めることにすると
その文章はやたらに息が長く、満々と水をたたえて悠然と知識や論理を運び、結局、彼がなにをいいたいのかわからなくなってしまうことがしばしばある。揚句には、わたしは「どうも読みにくい文章だ。まったくこの人はなにをいいたかったのだろう」と力なく呟いて頁を閉じてしまう。
ここまでは、あゝ僕も柳田国男をなんども途中下車したなあ、ていどの話。
つづいて、ここに引かれた人との間になにかあったのかと勘繰りたくなるような、皮肉に続いて、井上の「深さ・鋭さ」が展開する。
それは
そして、柳田国男の讃美者たちの、《柳田の文章の力の大きさは、ここで改めていうまでもない。まさに文は人なりで、その文章は柳田国男の存在の決定的要素といっていい。柳田の高度の文学性を理解できない人を、私は信用したくないとさえ思う。》(「柳田国男の世界」(伊藤幹治・米山俊直編著)と声高にいうのを背中に聞きつつ、別の、もっと判りやすい書物に向かうのだが、あるとき、本書に収められている「鳴滸の文学」を読み、なぜ柳田国男の文章がわかりにくいのか、突きとめたと思った。すなわち、その二三の冒頭で柳田国男はこういっている。
《結論は読者に作ってもらうのが、今までの私の流儀ではあるが、》(略)彼の文章は絶えず読者めがけて質問の矢を射つづけている。たくさんの、そして撰り抜きの材料を並べて、さてと最後に問うのである。「こういう材料を並べたところからも私の訴えたいところはおわかりいただけたと思う。では今度はあなたが答える番ですよ」と。
絶えず答えを求めて来る、まるでブラタモリみたいなところが、うっとうしくて柳田の文章の読みにくいことの原因であり、その質問にちゃんと答えられる確信に欠けるからつい挨拶をしてしまうのではないか、という(ブラタモリは僕)。
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そうして、井上の考察は柳田の文章の「主題のぼかし」に触れ、
息の長い、「だらだらした」文章が続いたと気づくや、とっておきの情報をふたつみっつフラッシュのように焚いて読者の目をさまさせる、というのも柳田国男の文章に目立つ特徴であり

じつにしばしば脇道にそれ、間道を縫い、木樵道に迷ったふりをして論理を「遠回り」させるのも、この名人の常套で、
迷った読者は、前者の情報の輝きを思い出して再び柳田の書物に向かうと指摘する。
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その後は、「笑の本願」の主題が「俳諧的笑」であり、芭蕉一門の連句会席における「笑って人生を眺めよう」という態度ではないかといい(ここは「笑の本願」を読まないとわかりにくい)本文をつぎのように結ぶ。
別にいえば、柳田国男は蕉風俳諧の比類のない後継者だった。連句の会席では、すべてをはっきり言い切ってしまうのは禁忌である。そこでの付合は、たがいに微妙に反響し合いながら、揚句へと進んで行く。たがいに心を開き合ってもの静かに咲(え)みつつ、その一刻を賞翫する。そこに座が成立する。柳田国男は、その座がいくつか集まってより大きな座をなし、そのより大きな座がさらにいくつか寄り合ってもっと大きな座を作り、、、究極は無数の座の連合体が日本であれと祈っていた。「笑の本願」という題名に彼のそういう祈りがこめられているとわたしは信ずる。したがって柳田国男の作品はすべて歌仙の一巻である。柳田国男の主催する「座」に連なり、揚句をよみ、その歌仙にまとまりをつけるのは読者の役目なのだ。連句・付合と思えば、彼の文章は非常に懐かしいものとなり、しみじみとこちらの脳味噌にしみ込んでくる。そして彼について述べるときに挨拶をつけたくなるのは、相手がその「座」の宗匠であると思えば、われら連衆には当然すぎるほど当然な行為だろう。
どうですか、油断大敵でしょう。
読みかけたアメリカインディアンの物語もあるけれど、やっぱりこっちを先に読みたい。
問題はここに取り上げられる本を読みたくなることだ。
良い書評は(僕のと違って)、その本を読みたくさせる。
読みたい本が増えるのは嬉しいけれど、そんなに時間がないのよ。
Commented by jyariko-2 at 2020-10-28 15:46
井上ひさしってその難しい事をやさしく
そこがいいところで
そこが難しい 奥深いですね
Commented by saheizi-inokori at 2020-10-28 16:20
> jyariko-2さん、中身のないことを難しく(わかりにくく)書くのも易しいけれど、中身のあることを易しく書くのは中身のあることを分かっていないと書けませんものね。
Commented by unburro at 2020-10-28 16:58
>中身のあることを易しく書くのは中身のあることを分かっていないと書けませんものね。

ほんとうに、そうですね。

中身の無い作文を、何ひとつ理解していないままダラダラと
読み上げるだけの中身の無い総理大臣って…
練習すらしていないから、バカな読み間違え、言い間違いばかり。
アベとスガは、日本語を破壊してしまいました。
井上ひさしの戯曲の素晴らしさは、日本語の素晴らしさです。
冥界から蘇って、祟って欲しいです。
Commented by saheizi-inokori at 2020-10-28 17:38
> unburroさん、ことばの楽しさも教えてくれた井上、ほんとに甦ってほしいです。もっとも作品はとても読みきれないほど遺してくれましたがね。
Commented by doremi730 at 2020-10-29 00:38
私も図書館から借りて来た「井上ひさし短編集」を
明日返す前に、、、と読んでいたところです(^^)
Commented by saheizi-inokori at 2020-10-29 05:51
> doremi730さん、シンクロですね!
Commented by j-garden-hirasato at 2020-10-29 06:49
夜中に目覚めて、
落語を聞いて二度寝とは、
何か、得した気分ですね。
Commented by at 2020-10-29 06:50 x
柳田国男は、民俗学という高峰に、ぼんやりとした灯りをともして案内してくれる先達さん。
あの丸谷才一でも、文章はわからないと嘆息する始末。
しかし、丸谷はこうも補足します。
結局、近代の実証科学だけでは民俗の本質はつかめない。
想像力、詩人的直観の強い発動がなくては・・・
柳田はこう言いたいのではないか、と。

その精神を受け継いだのが弟子の折口信夫なんでしょう。
折口は小説、詩、短歌の創作も交えて古い先祖たちの精神生活に迫ろうとしたのです。
Commented by saheizi-inokori at 2020-10-29 07:56
> j-garden-hirasatoさん、ほんとにそうでした。
もっとも今朝は二時にトイレに行ってすぐ寝てしまいましたが。
Commented by saheizi-inokori at 2020-10-29 07:59
> 福さん、詩歌の果たす大きな役割ですね。
折口信夫も全集を取り始めて、二巻でギブアップしてしまいました。
現役時代でしたから、とてもじっくり読む気にもなれなかったなあ。
Commented by ikuohasegawa at 2020-10-29 16:57
saheiziさん紹介の「難しいことをやさしく」教の宗祖様の考察を読むと、柳田国男もわかりそうな気がしてきました。

折口信夫全集の挫折経験は私もあります。
Commented by saheizi-inokori at 2020-10-29 17:04
> ikuohasegawaさん、私は焚かれたフラッシュだけ楽しんだかもしれません。
Commented by at 2020-10-30 06:42 x
>柳田国男は蕉風俳諧の比類のない後継者
大宗匠芭蕉(柳田)は招かれた席で発句(問題提起)を陳べる。
後は連衆(学徒)の才気を待つ。

柳田学は問いかけなのだ、と。井上畏るべし。
Commented by saheizi-inokori at 2020-10-30 09:36
> 福さん、ね、油断できないでしょう。
きのうは半日井上ワールドを楽しみました。
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by saheizi-inokori | 2020-10-28 13:27 | 今週の1冊、又は2・3冊 | Comments(14)

ホン、よしなしごと、食べ物、散歩・・


by saheizi-inokori