抵抗の文士、浅草を愛す 「荷風と東京 『断腸亭日乗』私註」
2020年 08月 27日
そのせいか、夢のなかでサンチとなにかのコンサートに一緒に行った。
おとなしく抱かれて一緒に見ていたが、トイレに行きたそうなので連れて行った。
人間のトイレで用をすませたサンチと戻ろうとしたが、どのドアから入ったらいいのかが、わからなくなった。
サンチがこっちだよと教えてくれる。
「よく分かったなあ、えらいなあ」とほめると「僕、犬だもん」というのだ。
ちょっと食欲を失くしていたサンチ、すっかり食いしん坊が回復して嬉しい。
受験勉強をしていたころは、団扇をパタパタしていたが、やがてそれを忘れるのは集中した証拠、参考書の上にポタっと汗が落ちて、あゝ、暑いと思うのだった。
手ぬぐい(タオルなんてないの)を首に巻いて勉強したなあ。
表の道(春日通り)が未舗装で、馬に大八車を曳かせていったとか、町内には名物親父がいたとか、近所の親父達は雲助を名前を呼び捨てにして、ときには怒鳴りつけて、まるで親子か親類のようだった、などと書いて、
どの時代でも移り変わりはあるのでしょうが、あたしらの世代は大層振り幅の大きい変遷をみてきたように思います。という。
振り幅の大きい変遷を象徴するのが、3・11フクシマでありコロナ禍かもしれない。
その振り幅のなかで、あの夏の日に勉強していた僕は結局あまり成長することもなくこじんまりと今に至ったような気もする。
震災後の復興期も、エノケンがカジノ・フォーリーで活躍したころには、行かない。
川端康成や高見順が、浅草に住んで作品を書いたのと対照的なのだ。
なぜか?
それは、浅草が今をときめく盛り場、賑やかな興行街に見えたからだ。
陋巷趣味の荷風にとってそんな街は無縁と思えたのだろう。
だいたい本場のNYやパリでオペラを見てきたんだし。
その荷風が浅草に興味を抱くのは、玉の井への途中などに寄った松屋百貨店の屋上からみた浅草が大きく変わっていることに気づいてからだ。
地下鉄銀座線の開通、小林一三・東宝による日比谷有楽街の開発などによって、浅草の賑わいが銀座に移ってしまう。
エノケンもロッパも浅草から日劇に移る。
浅草生まれの加太こうじは「浅草物語」に
浅草で遊ぶ人の多くが、関東の震災後は工場や中小商店で働く人、あるいは職人、兵隊などになった。東京生まれの知識人は震災後はだんだんと浅草へこなくなった。学生、知識人、サラリーマンの多くは銀座、新宿へ行くことになった。と書く。
昭和36年春、長野から上京した学生・僕も、鬱屈すると往復50円の地下鉄で浅草に行き、ただ街をほっつき歩いた。
歩くだけ、見るだけ、どこにも入らなかった。
本書に高見順の「如何なる星の下に」に載っているエピソードが紹介されているのを見て驚いた、というか面白かった。
それは、映画「綴方教室」に貧しい父親が無一文で正月を迎えなければならなくなって暴れる場面で、丸の内の映画館の観客は笑ったのに、浅草の映画館ではすすり泣く人がいた、という話だ。
これと同じことを、朝日新聞だったかに山田洋次監督が、「男はつらいよ」シリーズでは、山の手の観客が笑う場面で浅草では笑わない、と書いていた。
そして、僕が窓際にいた頃、昼間から三本1000円の浅草の映画館で、ピーナツを食いながら雨降り寅さんが、何かで怒りまくっているところを見ていたら、後ろの席のホームレスが、つんつん、つついて「なあ、あんちゃん、こんないい奴いねーよな」と言うのだった。
ほぼ一ヶ月、暇を持て余していたのに、足の向くのは浅草、そして酒を飲むでもストリップを見るでも落語を聴くのでもなく、スリキレ映画を見るくらいで過ごしたのだ(家では会社に行ったと思っていた)。
なんもない、うらびれの町、古着屋の町、そんな浅草の雰囲気があのころの僕にはぴったりだった。
そして荷風!凋落の浅草、そここそ荷風が愛する「一抹の哀愁」が漂う街となる。
世の中の流れが、浅草から銀座へと変わっているときに、荷風は逆に、それまでほとんど関心を持たなかった浅草へと出かけて行く。荷風はこの時、60歳になるかならないか、僕は40代前半、共通点があるとしたら、反骨だった。
荷風は、昭和12年、読売新聞に三日にわたって「浅草公園の興行者を見て」と題して、初めて浅草オペラ座を見て
わたくしは初め何の考えもなく、即ち何の期待もなく這入って見たのであるが、其演劇を見て非常に感服した。と書いたが、これは浅草演芸に対して、起死回生の注射薬のような役割を果たしたと葦原英了は書いている。
わたくしは浅草の興行物について、オペラ館の演藝のみを絶賛したが、然し此の一座の演藝を其まゝ他の町の劇場に移したなら、恐らく斯くの如き効果を収める事はできまいと思ふ。巴里モンマルトルの俗謡と滑稽劇とが其町より外には存在しない特種の雰圍気の中に發達した事を思へば、浅草名所のオペラ館も亦同じやうな空気の中に在らしめねばならない
荷風はお金持ちだったから、といって旨いものを食ったり酒を飲むのではなく、オペラ館やストリップ小屋に出入り、楽屋で踊子たちが半裸になるのを眺めながら雑談に興じたり、踊子たちを連れて森永などで御馳走してやる。
写真を撮ってくれるおじいさんが毎晩のように来るのよ、お姉さんも撮して貰ったら。ただなのよ、そして時々森永で御馳走もしてくれるけれどいやらしいことは少しもいわないし、しないのよオペラ館の踊子の話だ。
挙句の果てに「葛飾情話」というオペラの台本を書く。
陳腐な、ドサ回りの新派さながらの(郡司正勝)筋立てであったが、興行的には成功する。
バスの運転手とか、映画女優への憧れとか、千住あたりの向岸に遠く東京方面が見える放水路や、瓦斯タンクや鉄橋などのある暮れ近き日の舞台設定に、荷風好みの哀傷があって、ペシミスティックな気分の漂ったのが、浅草オペラの時代遅れが、一種の反時代性として秘かに快かったことを覚えている。と郡司が書いているのは、まさに荷風の描きたかったところだ。
時代が急速に戦時体制へと移行するなかで、「時代遅れ」の浅草オペラに関わり、踊子たちと親しく付き合う。そこに荷風の文士としての抵抗があった。
抵抗の士よ、現れよ。
サンちゃんに道案内までしてもらって
だいぶ毛がのびましたね
たくさん怒らないといけない羽目になりましたが、
一件落着、良かったですね
社会には、でもこうして「きちんと怒ってクレームをつけ、対処させる」人間が必要です。
お疲れ様でした。
サンちゃんとコンサートステキな夢です。笑
私もその記事読みました。
私は浅草辺で生まれ育ったので、笑わ(え)ない人の気持ちよくわかります。
昭和36年、浅草のどこかでsaheiziさんとすれ違っていたかも知れません(^^ゞ
確か、映画館で観たなあ〜。
畳の無い、藁を敷き詰めた家に子供ながら驚いたものですがー。
あの頃は未だそんな時代でしたね。
学校でも「作文」ではなく「綴り方」でしたねえ〜。
ビジネスのやり方も視点も違うようです。
サンチちゃん、暑さに少し参っていたのかな。良かった!
その分を誰かが負担している(労働という形でも)のでしょう。
サンチは神経質で、私たちの顔が揃うと急に食べたりもします。
その間救急車のお世話にもならず、お元気なようで何よりです。
大変でしたね。エアコンやはり必需品 夢でもサンチくんとコンサートに行けたのですね。窓際にいた頃に足の赴くままに浅草へあの頃は人も会社も余裕と情があったのでしようね。今ではすぐにリストラ。。。