A・R・ストーン先生のことを知ってますか
2020年 08月 17日
そこに住む小学校の友人・池田充君からCDが届いた。
「ヒマな時に見てくれ」、ヒマだとも!すぐに見た。
信越放送/SBCのローカルワイド番組「ずくだせテレビ」(7月29日)の録画だった。
「ずく」とは懐かしい長野の方言で「やる気」、僕は「ズクなし」のように否定的に使った。
ツルツルピカピカのゴールドラッシュネオという新品種を生でかじったり、醤油をつけて焼いたりしてみせる。
僕も小さいころはトウモロコシというともっぱら焼きトウモロコシだった。
画面から香ばしい匂いが漂ってくるようで、思わず生唾ゴクリ。
さて、そのトウモロコシを信濃町に広めたのは、カナダから届いた手紙ならぬ、牧師のアルフレッド・ラッセル・ストーンだ、そのストーン先生のことを調べました、というのが番組のテーマだった。
野尻湖の畔に「A・R・ストーン先生の記念碑」というのがあると聞いて、現地に行く。
おお、懐かしの野尻湖!霧が出ている、弁天島もあるある!
何度か(池田君とも)野尻湖にいったけれど、この石碑をみたのだろうか。
一茶の句を版画にし郷土史家といってもいい池田君が、一茶の句碑とか弁天島で泊まった中勘助の碑などを教えてくれたときに見せてくれたのかもしれないが、覚えていない。
この碑のことを池畔の旅館・藤屋の女将に尋ねた大久保は、「みつるさんが、中心になって作った」ことを聞き、蕎麦やを営む池田君に会いに行く。
それまでここで採れるもろこしは、モチモロコシと言って、紫色で甘くない。
ストーン先生は寒暖差の大きいカナダと気候が似ている野尻に、新種のクロスバンダムを移入した、それが信濃町の名産の元祖となった。
先生は、ルバーブやトマト、アスパラなどの栽培も指導した。
池田君は赤い茎のルバーブも栽培してジャムやケーキなどを作っている。
信濃町の小学校で英語も教えてくれた。
貧しい 力がない人に寄り添う人だったと池田君は語る。
戦争中、カナダに帰国して、日本人の移民が強制収容所に入れられたときには、先生は収容所をなんども訪れて、励ましたり食事に連れ出したりもしたという。
戦争をしている相手にですよ。と池田君は自分も収容されていたかのようにいうのだ。
それがなにより有り難かった!
1954年の洞爺丸事故の際、船に乗り合わせた先生は、泳げない日本人に自分の救命胴衣をあげて死んだのだ。
三浦綾子の「氷点」には先生をモデルにした人物が登場するという。
録画を見終わって、池田君に電話した。
ストーン先生の子供と付き合いがあるそうで、その話によると、先生は自分は泳げないくせに、泳げない子供を野尻湖で無理やり泳がせたそうだ。
茅野の親戚の家に子供の頃行ったという話をいつか記事に書きました。お昼ご飯に蒸したとうもろこしをご馳走になり、その美味しさにビックリしたのを今でも覚えています。私はあれでとうもろこし好きになったように思います。
松本よりこちらが先ですね
胸が熱くなるようなロマンあふれるお話し
池田君さんも素敵な方ですね
野尻湖は高校の時に始めて行きました
林の中にテントを張って飯盒でご飯を炊いて・・・・・
男の先輩がカッコよくて遠くからみていたり
ドキドキしていたものです 懐かしい
信濃町と言えば一茶ですね 一茶を求め歩いたこともあります黒姫高原も 秋にはコスモスが沢山咲くことでしょう
私も行きたくなってきました
トウモロコシ、スイカ、今年はまだ食べてないです。
ああいうものでも、買ってきて食べようとするのは気持ちのゆとりが必要です、私には。
「困っている人を救えるのであれば 自分の命に代えても助ける」というストーン先生の崇高な信念を知ることができました。「ずくだせテレビ」「池田君」そして「梟通信~ホンの戯言」のお陰です。
楽しい思い出です。
氷点、読んだこともないのになんとなくメロドラマかと思っていましたが、読んでみましょう。
アメリカは慣用句のようにちょっとしたスピーチの後<神の祝福をあなたに>というんですが...ストーン宣教師は本当に信濃と人々がお好きだったのでしょう。胸打たれますね。