エビデンスなき政治の危険 「未来への大分岐 (マルクス・ガブリエル)」
2020年 07月 23日
Wikipediaによれば、複数の言語(ドイツ語、英語、イタリア語、ポルトガル語、スペイン語、フランス語、中国語)を自在に操り、また古典語(古代ギリシャ語、ラテン語、聖書ヘブライ語)にも習熟している。
さて、どんなことをおっしゃいますか。
それは、現代の我々の多くが誤った概念を用いて思考しているからだ。
正しい概念をもたずして、現実の問題が何なのかを見てとることなど不可能です。概念が間違っていたら、人種差別や不平等、民主主義の危機や資本主義の暴走といった現実的な問題の解決に向けた取り組みを始めることなどできません。現代が困難な時代である理由のひとつは、ここにあります。その誤りとは?
そのひとつは「ポスト真実」(post-truth)、「世論の形成において、客観的な事実よりも感情や個人的な思い込みのほうが影響力を発揮している状況」(OED)、「より多くの真実」(more truth)、誤った信念が「実在」していること。
誤った信念、たとえばホロコーストや従軍慰安婦をなかったという信念、は私たちの生活を(通常は悪いほうに)変える力をもった「事実」なのだ。
「自明の事実」を自明でないと信じている人、たとえば歴史修正主義の人たちを論駁するのは疲れる。
まったく異なる世界に住んでいる人との対話は不可能にすら思えてくる。
しかし、そうした議論をやめてしまえば、民主主義は弱体化してしまう(今の日本だ)。
こうした状況ではびこるのが「相対主義」、正義、平等、自由などの世界のどこでも通用する、普遍的な意義のある概念なんてものは存在しない、存在するのは、土地ごと、文化ごとのローカルな決定だけなのだという考え方。
それが、経済格差、気候変動、難民問題など地球規模の危機に、人々が解決策を講じる土台を喪失させている。
「自明なものの政治」が必要です。エビデンス(証拠)に価値を置く政治を求めるべきだ。科学的根拠のないままに「専門家の意見を尊重して」、一斉休校、緊急事態、GOTOキャンペーンをやる、アベ政治こそそのエビデンス無き政治の典型だな。
事実に基づかないやり取りが、たとえばSNSにあふれている。
それについてガブリエルは、道路交通に交通ルールが必要なように、Wikipediaにピアレビュー、FBやツイッターにはプロのジャーナリストが役員会に入る、などの規制が不可欠であるという。
また、相手が政治家であっても、暴力的な言葉で誹謗中傷するのは違法とすべきだ、とも(僕もときどきアベの人格否定的なことをツイートしたりイイネしたりしている、反省)。
相対主義の見方をする人たちは事実に直面するのを避けている、その言い訳が「ポスト真実」。
「他者性」を作り上げることによって、自分が見たいものだけを見ている。
プーチンは他者性を利用した相対主義的戦略を駆使している、ポスト言語を操るのがうまい。
相対主義は普遍性を拒絶し、他者から自分たちを分離する新たな境界線を築く。
境界線の向こうの人たちを、究極的には「人間でない」存在として考えるようになる。
「人間の終焉」、フーコーの「言葉と物」、デリダの「人間の終わり」、ニーチエの「超人」、ヒューマニズムに関するハイデガーの考え、これらポストモダンの相対主義は、他者を非人間化する。
非人間化の行きつくところまで行ったのが、ナチスの強制収容所であり、パレスティナのガザ地区だ。
イスラエルは、ガザ地区の人々を完全なる他者だと見ているから、あれだけの非人間的な生活を強いることができる。
さあ、イスラエルの相対主義を僕たちは、あれは特別な歴史的産物だと他人事のように等閑視していられるのだろうか。
それは、また。
“正しい概念” を見極めることのできる目が欲しいです。
人間自体を否定するようになるでしょうね。