内閣記者会は大政翼賛会なのか
2020年 06月 19日
やはり読書は、その世界に感情移入するくらいの集中が必要だ。
青年・青木とともに熱帯の僧院でタイ人の高僧、それも当代の名僧(青木が心底尊敬し、それを読む僕も会いたくなった)や警察署長を引退した僧や、イギリス人・ゼントルマンの僧、、いろんな僧たちと親交を深めるのは、引きこもり老人にとって楽しい時間だった。
まいにち同じことの繰り返しなのに、そのなかに小さな変化が無限に存在している。
修行の形式に身を預けることが、どんなに身心の浄化をもたらすものなのか。
それは決して「さとり」の修行などといういかめしい肩をいからしたものではない。
厳しい日課の間の僧たちの会話は日常の雑談が多く、教理の解釈などは話題にならない。
本を読む僧もほとんどいないのだ。
そこで6カ月暮らした筆者の感想。
そこには人間の生活があった。テラワーダ仏教の世界が、まぎれもない人間の世界であるという発見につきる。僕の行き方と対照的な自然な行き方・生き方だ。
確かに過剰な形式主義は存在する。温帯のドストエフスキーを愛読するような風土に育った私には、もっと強烈な心情、厳しい生の葛藤、深刻な苦悩の表出といった面を期待するものがある。タイ人僧の泰然さ、形式を守って事足れりとする態度に、あき足りないものを感じてしまうことは事実であった。
しかし、そうした不満以上に私が身心ともに学んだことは、存在に対する自然さ、ともいうべき人間の態度である。力まず肩に力を入れず踏んばらず、大海に川の流れが注ぐが如く、自然とともに一体化しようと黙々と生きてゆく。議論をしない。観念で頭を一杯にしない。空理空論をもてあそばない。実践によって、形を守ることによって、それだけによってすべてを表現する。それを自然であると私は感じたのだ。修行生活を通してこういうテラワ-ダ僧の行き方が、何よりも人間の自然な姿であると考えるようになったのだ。それを理解した。理解したときから、しかし、自然でいることは何と至難なことに思えてきたことであろうか。
タイの僧院で修業すればなんとかなったのだろうか。
こうして本で知ると、いいなあ、と思うのだから、まったく縁なき衆生というものでもなかろうが。
いずれにしても、時すでに遅し、だ。
タイ人の僧も、日本人がタイの国技であるボクシングを勝手にキックボクシングだなどと商業主義・興行に変えてしまい、あまつさえタイに逆移入することに心底怒っている。
僕が子どもの頃から教えられて育った、人の上にたつ人間は李下に冠を正さず的な「自然な常識」はとうに死文化してしまった。
一億五千万円!
それだけの巨額な資金が、アベを批判した自民党議員を刺すために差し出されて、その使途について闇の中。
首相一人の任命責任を「取る」のか、責任を「痛感」したのは、これで52回目だ。
ふつうの人間の感覚の欠如したアベにとっては痛いという感覚は言葉だけのものなのだ。
もの忘れをするたびに尻の肉をつねって思い出すことを続けているうちに尻の皮が厚くなってしまって釘抜きでつねらなければならなくなった、落語「粗忽の使者」の地武太治部右衛門のように、心をペンチでねじ上げないと「痛感」なんてできやしないアベ。
そして「われわれ国会議員は」に呆れる。
お前だよ、我々じゃないのだ。
黒川事件については一言もない。
コロナ対策の失政についての謝罪もない。
記者たちが猛烈な質問攻めでアベを立ち往生させるかと思いきや、飼い馴らされた記者たちは提灯持ちの質問ばかり、これから始まる会食三昧の総理の休暇に対する餞とねぎらいの言葉しか発しない。
なぜ、河井夫妻だけに一億五千万円もの資金を提供したのか?
その責任者は誰なのか?
何故、国会を続けないのか?
電通丸投げの真相は?
遅れている給付金支給の見通しと責任?
イージスアショアの責任は?
検察庁法案を廃案にした責任は?
、、。
問いただすべきことは山ほどあるのに、誰も訊かない。
「大政翼賛会」がすでに進行していると思った。
アベ総理の就任演説会と化した河井夫妻逮捕後の記者会見!
— 佐平次 (@saheiziinokori) June 18, 2020
内閣記者会は日本会議なのか。
https://t.co/BMWG8GjEOV
アベにお追従の若いエリート記者に眩暈がします
昔タイのピピに潜りに行きましたが、素朴な島や人々
あのとろりとする空気は。。 再訪の勇気がないです
痛感している最中の人間が、改憲議論に乗ってこないと野党を責めるって、痛感が嘘だとバレバレ。
お前みたいなウソツキと改憲論議なんかできるものか、そんなことも分からないのか。
バカ・カバ・ウソツキ、あ~もー!!
品性のかけらもありません。