「私もいれて」「いいよ」子どもたちの懐かしい声
2020年 04月 03日
その間の賃金は補償するとも。
強制力を伴わない日本の緊急事態宣言では自粛要請は、補償によって担保しなければ実効性が下がる。
それもあって、アベは緊急事態宣言にたじろんでいるのかもしれない。
それにしても、諸外国と神国日本の差は惨たるものだ。
貧すれば鈍するということか、アベ長期政権で下がりっぱなしの国力が恨めしい。
まず高校時代の友人から電話があった。
牧師をしていて、教会の日報をまとめたものを送ってくれたので、気持ちだけの寄付をしたのだ。
コロナを機に世界が垣根を取り去って助け合う気持ちになるといいのだが、今の政権の方向は分断と亀裂を深めていると(僕が)憤慨したら、そうだねと優しく受けてくれた。
その日報の中から「私も『いれて』」という文章
今もすぐ前で遊んでいる数人に、小さな女の子の可愛い声です。「私もいれて」そうすると一斉に「いいよ」との答え。こんな当たり前の情景にも私の胸はキュンとさせられる。なんという美しさ、温かさ、寛大さ、なんだろう。この素敵な子どもたちを皆抱えて抱擁したくなります。高校時代の姿しか見ていないから、牧師としてお説教をしているところをいつか見たいと思う。
この時代、孤独で捨て猫みたいな気持ちでやっと生きている人々が多くいます。「いれて」と声をかける勇気がでてこない。人に近づくのも怖くなる。口を聞くのも嫌になる。会議でも黙ってしまいます。だからこの幼子たちは、私達の大先生にして大先輩です。私は心の中で感謝し手を合わせているのです。
小学校の友達の「日系442連隊の波紋」という文章がのっている冊子と、大学時代の友達が出している「花林舎 ガーデン植物園だより」という冊子の「冬号」だ。
それぞれに電話して、若い声で話して誤嚥防止のトレーニングにもなった。
電話を切って初めて、そうか珍しい友人ばかり、言い合わせたように、これで中学の友人が入れば小中高大とストレートができたのに。
人のツイートにリツイートするばかりだが、たまには、と自分で呟いてみた。
私の子供の頃は、こんな隣近所の助け合いは、当たり前だったなあ。
— 佐平次 (@saheiziinokori) April 2, 2020
コロナが分断を深めるなかで、一人が他人に生かされるとともに、他人を生かす一人でもあるということを、思い出させてくれる。
コロナ自粛、スウェーデンで「高齢者による行列」がない理由(現代ビジネス) https://t.co/Zu7BJWu0P3
ハイリスクの人専用のスーパー営業時間なんてこっちでもやってくれないかなあ。
せんじつ、北イタリアの人がナポリの露天風呂で幸せそうに笑っているテレビの旅番組、コロナを避けられたかなあと思って見ていた。
昨日、ラジオで聴いた懐かしい曲。
どこも真剣にコロナと向き合っているのに、日本の何もかもがどこを向いているのか。コロナ鬱の症状原因に政府の意味も無い対策が入っている気がします。
貧弱な精神で成り立つ社会の貧弱な政治によって作られた意識、怖いと思います。
でもバカも勿論おります。
コロナ問題が深刻になりだした当初、コストコやスーパーなどでトイレットペーパーを買占めし、その駐車場で転売するバカ。
マスクを公園で転売するアジア系のバカ。すぐ摘発され罰せられたようですが、政府がこのような者達に即対応するのは良い事かと感じてます。
外出自粛を無視して公園に出回ってる者達への罰則や罰金制度もすぐ設けられました。
「怒り新党」という団体を立ち上げたくなります。