ノーベル賞文学を読んでアベを思うこの因果 「赤い髪の女」(オルハン・パムク)
2020年 02月 14日
夕方、能楽堂に行ったのだが、さいしょの狂言「蟹山伏」は面白く見たのに、目当ての能「井筒」が始まる前に帰ってきてしまった。
二時間の上演時間を集中できそうもない気がしたのだ。
がんばる、という選択肢しかなかったぼくが、がんばらない、という新しい道を開拓したのだ。
客観的な真相は「がんばれない」かもしれないが。
迷ったすえに「はじめ」の前まで行って店の中を覗いたらいっぱいの客、開けて入れば一人くらい滑り込めるのだが、それもパスしてまっすぐ家に帰った。
少年は、父が失踪したあと学費を稼ぐために井戸掘りの助手となる。
探知機もなく勘でポイントを選び手掘り、厳しくも温かい親方を、実の父に重ねてみる少年16歳。
街の移動劇場にきた「赤い髪の女」に一目ぼれして、33歳のその女性が初めての女となるが、彼女はすぐに次の街に移動してしまう。
このあたりまでは、まだ牧歌的情緒を漂わすイスタンブル郊外に展開する初々しい青春小説かと思って読む。
誤って井戸の底の親方の上にバケツを落してしまう。
親方の生死が不明なまま、恐ろしくなった少年はそこを逃げ出してしまう。
親方を殺してしまったのではないか。
少年は、実業家として成功するのだが、仕事の傍ら愛妻と共に、父殺しのオイディプス(ソフォクレス)と子殺しのロスタム(イラン最大の民族叙事詩・王書)、西洋と東洋の古典に登場する物語の絵画や意味を求めて世界を訪ねる。
親方を見捨てて逃げて30年、ふたたび過去の亡霊が登場する。
過去の亡霊であっても現に生きている自分の子だ。
父と子の愛、そのすれ違いから生じる殺し。
あの赤い髪の女も姿を現す。
父親がいないというのは、この世界には中心も限界もあることを教えてくれる人がいないってことです。作中の父なし子が、やはり父なし子であった、じつは父にいう言葉だ。
幼くして父を亡くした僕にはグサッとくる言葉だ。
たしかに、そういうところはある。
いってみれば(小さな)「自己中心」でしか生きられなかったということだ。
(限界までは)何かをしてもいい、許されているという感じがなかったのだ。
この小さな自己が生きていればいい、それ以上のことを望むのは分不相応、よその子たちには当然のこととして許されているいろんな楽しみは、はなから僕たち兄弟には縁のないもの、そんなことだったかもしれない。
父たちが「ダメ」とガツンというまでは何をしてもいいと思っていたのだ。
そして、今、アベにガツンという人がいないから、あんなことを平気でやり続けて、自分で自分を制御できなくなっているのだろう。
訳 宮下 遼
COVID-19が蔓延すると、人の集まる舞台や展覧会などの催しの中止もありうるでしょうしねえ。
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これは周知の事実なのに なぜ? 開発中だから3月末まで
待てとは何んなんでしょう アベは全く信用できないです
海外報道は理に叶い日本の家族が心配です アベ政権総辞職!