一之輔の精進を期待する 春風亭一之輔独演会@紀伊国屋ホール
2020年 01月 31日
ことし初落語は紀伊国屋ホールで「春風亭一之輔独演会」、げんざいもっとも切符のとれない噺家のひとりだ。
早めに行って、軽くしのいで、それから多和田葉子の本でも探そうと思った。
そんなときにいつも入る紀伊国屋の地下の食堂街を歩くが、饂飩、鮨、イタリアン、カレー、どれもイマイチその気にならない。
「マツキヨは中国人が多いぞ」行きかう人のそんな会話が聞こえてくる新宿の街を歩いて伊勢丹会館のカフエに入った。
大きな声で韓国語の電話をしている女性とその隣でだらしなく太いナマ足を投げ出して座る女性を見るともなく見ながらミックスサンドを食いカフェラテを飲んだ。
見るともなしでも見ていたのだからイヤラシイじいさんと思われたかもしれない、ウイルスもバイ菌もうようよいる都会の雑踏はピリッとしてないと危険がいっぱいなのだ。
けっきょく本屋に行きながら本を探すこともできなくなって会場に入った。
前座・与いち「やかん」
なかなかいいリズムで、楽しみな若者だ。
「奥さん」のいわれは「奥でお産をするから」という隠居に、じゃあフランス人は「クロワッサン?」意味のないツッコミを面白く聴かせる技術を身につけている。
一之輔「百川」
小三治が落語協会の会長になって、それまでの順送り真打昇進を打ち破ったときに、何十人かの先輩をさしおいて破格の抜擢で真打になったのが2012年、あれからハヤ8年、師匠の一朝仕込みの本格落語を土台に臨機応変、縦横無尽、融通無碍、つねに新しいクスグリや展開をみせて爆笑をかちえている。
しばらく見ない間に、すっかり貫禄もついた。
ゲストの萬橘をいじり、落語は、そんなに躍起になってやるもんじゃないですね、けだるいマクラは計算されているものだが、それだけでなくなんとなくいつものような生気が感じられなかった。
昼の部で二席勤めている、その疲れというだけでなく。
四神剣の説明で、東の青龍・南の朱雀・西の白虎・北の玄武の動物の形態模写をして、お爺さんの亀・玄武の真似をしてみせる噺家はいないだろうとエバッてみせる。
珍妙な方言を語る百兵衛と早とちりの江戸っ子のやり取りは面白かった。
ただ、多くの噺家のやり方だけでは収まらないのが一之輔流、クワイの金団を飲みこまされた百兵衛が変容して、サザエを飲ませろとドスを利かせたり、常磐津の師匠を呼びにやらされるところでは、ヘンな外国人になってしまう。
一之輔ファンでいっぱいの会場は大うけだった。
萬橘「代書屋」
一之輔とは生まれも真打昇進も一年違いだが、ずっと若く感じられる、この人も目下人気急上昇。
一之輔に「ねずみ男」(ほんとに似ている)と言われたのを受けて抗議するふりをしながら、ひねりの利いたジョークをポンポン矢継ぎ早に飛ばす、才気を感じさせる。
代書屋は、「百川」を受けてか、「ごめんくらっしえ」と変な方言のお姉さんがラブレターの代書を頼みに現れたあとで、いつも出てくる変な男も登場する。
履歴書は「就職するのですね」と尋ねると「違う、働こうと思ってね」と答える。
アベの「募ったが募集はしていない」を思いだした。
一之輔「笠碁」
一応爆笑を誘ったのだから、文句はないというべきだが、ぼくはちょっとイチャモンをつけたい気持ちだった。
それは、「百川」についてもいえることで、「受けようと躍起になる必要はない」と枕で語ったのにも関わらず、じっさいは「受けようと躍起になって」一之輔流のヒネリ・クスグリを加えていたのが、聴いていて、ちょっと辛かった。
百兵衛の聴き取りにくい訛りを「アンチュウカモネッチ」などと聞きなして、頓珍漢なやり取りをするところは、元ネタの面白さの延長にあって、楽しく聴かれたが、三光新道に行ってからのへんな外国人になるところなどは、取って付けたようでシツコイと思った。
もう一人、ほんとの掛け合い人を登場させるサゲも、かえって百兵衛の存在を軽くしてよけいな工夫だと思う。
さらに、こっちの方が問題だと思うが、百川の主人の貫禄が感じられない、客が小商人であってもおかしくない、河岸の若い者の(主として喋り)感じがしなかった。
しかし、このあたりまでは、ぼくの好みの問題であって、多くのお客様が大うけだったから、大した問題じゃない。
現にこうして一日おいて、このブログを書いていると、なぜ昨日はあんなにつらく感じたのか、別に問題ないじゃないか、とも感じられる。 「笠碁」の方が、問題が大きい。
「百川」に比べると、独自のクスグリは、8歳の頃、雨に濡れて待ちぼうけを食ったエピソードあたりで、ほとんどふつうに聴く演出だったと思う。
それだけに、二人の老人の描き方が粗雑なのが目立った。
同い年の幼馴染というのに、よっちゃんのカミさんが妙に若かったりして、二人の年齢が想像しにくい。
喧嘩して退屈しているはずなのに、なんとなく不機嫌なだけでアンニュイの気分が出てこない(あくびの道場に通ったらどうか)。
だから、降り続ける雨という、この噺に必須の情緒が伝わらない。
さいしょに二人が碁石をおくのも、ひょいひょいと、種撒きでもするような感じで、これでは、ピシっ、という音が感じられないのだ。
雨と碁石と碁盤、この噺の魅力を作る場面・状況設定と登場人物の個性、その基本を押さえないでセリフの面白さで受けようとしては「すべる」し「蹴られる」よ。
そうそう、よっちゃんが碁をやりたくて友だちの家の前を蟹歩きするところ、よっちゃんを碁石の音で釣る、傘がないので笠をかぶって悪戯っぽく笑うところ、いずれもこの噺の肝、省かないでほしかった。
老人がイラついて家人に当たるところや「待て待たぬ」で過去の恩義をいくつもくりだすところなどがシツコイくらいなのに、肝心の名場面を省いては本末転倒というものだ。
落語は初めてでも居残り会は二度目。
「犀門」で、酒は飲んでも飲酒はせず、語り笑っても談笑はせず、酔っても酩酊はせず、ああ、楽しかった!
早めに行って、軽くしのいで、それから多和田葉子の本でも探そうと思った。
そんなときにいつも入る紀伊国屋の地下の食堂街を歩くが、饂飩、鮨、イタリアン、カレー、どれもイマイチその気にならない。
「マツキヨは中国人が多いぞ」行きかう人のそんな会話が聞こえてくる新宿の街を歩いて伊勢丹会館のカフエに入った。
大きな声で韓国語の電話をしている女性とその隣でだらしなく太いナマ足を投げ出して座る女性を見るともなく見ながらミックスサンドを食いカフェラテを飲んだ。
見るともなしでも見ていたのだからイヤラシイじいさんと思われたかもしれない、ウイルスもバイ菌もうようよいる都会の雑踏はピリッとしてないと危険がいっぱいなのだ。
けっきょく本屋に行きながら本を探すこともできなくなって会場に入った。
なかなかいいリズムで、楽しみな若者だ。
「奥さん」のいわれは「奥でお産をするから」という隠居に、じゃあフランス人は「クロワッサン?」意味のないツッコミを面白く聴かせる技術を身につけている。
一之輔「百川」
小三治が落語協会の会長になって、それまでの順送り真打昇進を打ち破ったときに、何十人かの先輩をさしおいて破格の抜擢で真打になったのが2012年、あれからハヤ8年、師匠の一朝仕込みの本格落語を土台に臨機応変、縦横無尽、融通無碍、つねに新しいクスグリや展開をみせて爆笑をかちえている。
しばらく見ない間に、すっかり貫禄もついた。
ゲストの萬橘をいじり、落語は、そんなに躍起になってやるもんじゃないですね、けだるいマクラは計算されているものだが、それだけでなくなんとなくいつものような生気が感じられなかった。
昼の部で二席勤めている、その疲れというだけでなく。
四神剣の説明で、東の青龍・南の朱雀・西の白虎・北の玄武の動物の形態模写をして、お爺さんの亀・玄武の真似をしてみせる噺家はいないだろうとエバッてみせる。
珍妙な方言を語る百兵衛と早とちりの江戸っ子のやり取りは面白かった。
ただ、多くの噺家のやり方だけでは収まらないのが一之輔流、クワイの金団を飲みこまされた百兵衛が変容して、サザエを飲ませろとドスを利かせたり、常磐津の師匠を呼びにやらされるところでは、ヘンな外国人になってしまう。
一之輔ファンでいっぱいの会場は大うけだった。
萬橘「代書屋」
一之輔とは生まれも真打昇進も一年違いだが、ずっと若く感じられる、この人も目下人気急上昇。
一之輔に「ねずみ男」(ほんとに似ている)と言われたのを受けて抗議するふりをしながら、ひねりの利いたジョークをポンポン矢継ぎ早に飛ばす、才気を感じさせる。
代書屋は、「百川」を受けてか、「ごめんくらっしえ」と変な方言のお姉さんがラブレターの代書を頼みに現れたあとで、いつも出てくる変な男も登場する。
履歴書は「就職するのですね」と尋ねると「違う、働こうと思ってね」と答える。
アベの「募ったが募集はしていない」を思いだした。
一之輔「笠碁」
一応爆笑を誘ったのだから、文句はないというべきだが、ぼくはちょっとイチャモンをつけたい気持ちだった。
それは、「百川」についてもいえることで、「受けようと躍起になる必要はない」と枕で語ったのにも関わらず、じっさいは「受けようと躍起になって」一之輔流のヒネリ・クスグリを加えていたのが、聴いていて、ちょっと辛かった。
百兵衛の聴き取りにくい訛りを「アンチュウカモネッチ」などと聞きなして、頓珍漢なやり取りをするところは、元ネタの面白さの延長にあって、楽しく聴かれたが、三光新道に行ってからのへんな外国人になるところなどは、取って付けたようでシツコイと思った。
もう一人、ほんとの掛け合い人を登場させるサゲも、かえって百兵衛の存在を軽くしてよけいな工夫だと思う。
さらに、こっちの方が問題だと思うが、百川の主人の貫禄が感じられない、客が小商人であってもおかしくない、河岸の若い者の(主として喋り)感じがしなかった。
しかし、このあたりまでは、ぼくの好みの問題であって、多くのお客様が大うけだったから、大した問題じゃない。
現にこうして一日おいて、このブログを書いていると、なぜ昨日はあんなにつらく感じたのか、別に問題ないじゃないか、とも感じられる。
「百川」に比べると、独自のクスグリは、8歳の頃、雨に濡れて待ちぼうけを食ったエピソードあたりで、ほとんどふつうに聴く演出だったと思う。
それだけに、二人の老人の描き方が粗雑なのが目立った。
同い年の幼馴染というのに、よっちゃんのカミさんが妙に若かったりして、二人の年齢が想像しにくい。
喧嘩して退屈しているはずなのに、なんとなく不機嫌なだけでアンニュイの気分が出てこない(あくびの道場に通ったらどうか)。
だから、降り続ける雨という、この噺に必須の情緒が伝わらない。
さいしょに二人が碁石をおくのも、ひょいひょいと、種撒きでもするような感じで、これでは、ピシっ、という音が感じられないのだ。
雨と碁石と碁盤、この噺の魅力を作る場面・状況設定と登場人物の個性、その基本を押さえないでセリフの面白さで受けようとしては「すべる」し「蹴られる」よ。
そうそう、よっちゃんが碁をやりたくて友だちの家の前を蟹歩きするところ、よっちゃんを碁石の音で釣る、傘がないので笠をかぶって悪戯っぽく笑うところ、いずれもこの噺の肝、省かないでほしかった。
老人がイラついて家人に当たるところや「待て待たぬ」で過去の恩義をいくつもくりだすところなどがシツコイくらいなのに、肝心の名場面を省いては本末転倒というものだ。
「犀門」で、酒は飲んでも飲酒はせず、語り笑っても談笑はせず、酔っても酩酊はせず、ああ、楽しかった!
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kogotokoubei at 2020-01-31 15:13
一之輔、今日も鈴本の余一会で三席、ですね。
いろんな演出のアイデアも浮かぶし、それを演じる技量もあるので、つい、やってしまう部分はあるでしょうが、たしかに、才人です。
後は、どれほど了見が磨かれるか、ということでしょうか。
いろんな演出のアイデアも浮かぶし、それを演じる技量もあるので、つい、やってしまう部分はあるでしょうが、たしかに、才人です。
後は、どれほど了見が磨かれるか、ということでしょうか。
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saheizi-inokori at 2020-01-31 15:56
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福
at 2020-02-01 06:54
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j-garden-hirasato at 2020-02-01 07:08
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saheizi-inokori at 2020-02-01 09:00
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saheizi-inokori at 2020-02-01 09:01
> j-garden-hirasatoさん、おそらくトップに近いでしょう。
by saheizi-inokori
| 2020-01-31 13:43
| 落語・寄席
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