新自由主義の前提は非現実的であり、その政策は反社会的である 「社会的共通資本」(宇沢弘文)
2020年 01月 20日
あまりにもお日様がたっぷり、もったいないから靴下と下着の洗濯を一日繰り上げでやってしまう。
明日という日があるとは限らないし、ね。 あたたかな冬を素直に喜べない異常気象、それだけでも憂鬱なのに、紀州のほうでは水道管の故障で三日間の断水騒ぎ、結果としてすぐに故障個所が見つかって断水しないで済んだようだが、日本中の水道、ガス、橋、建物、、インフラが耐用年数を過ぎていつ壊れるかもしれないと、我が身の老化を重ねてイヤな納得だ。
何がオリンピックだと、テオクレの怒りが湧いてくる。 大気、水、森林、河川、湖沼、海洋、沿岸湿地帯、土壌などの自然環境、道路、交通機関、上下水道、電力・ガスなどの社会的インフラストラクチャー、教育、医療、金融、司法、行政などの制度資本、これらの三つを社会的共通資本として、それは
社会的共通資本は決して国家の統治機構の一部として官僚的に管理されたり、また利潤追求の対象として市場的な条件によって左右されてはならない。社会的共通資本の各部門は、職業的専門家によって、専門的知見にもとづき、職業的規範にしたがって管理・維持されなければならない。
前にも紹介した文章だが、このところますます、その正当性・妥当性を強く感じる。
一読、そんなことができるわけがないと思うほど、日本およびそれを牛耳るアメリカの実態は、宇沢のいうところと真逆な動きをして憚るところがない。
それで人々が「より幸せな社会を生きる」、望みがあるのならば、それでもいいけれど、事実は、日増しに不幸な人を増やし自殺者を生んでいる。 1870年代にジェヴァンズ、メンガー、ワルラスなどによって唱えられた新古典派理論は、市場における取り引きが政府または第三者によって強制されるのではなく、各人の自由意思にもとづいてなされるならば、その結果社会全体に効率的な資源配分がなされると考えた。
そのさい、「分配の不公正」という側面を無視し、希少資源の私有化が前提とされ、すべての生産手段がいつでも自由、費用もかけずに瞬時にほかの用途に変更できる(マリアブル)とした。 このような理論は現実には妥当せず、その理想とは乖離する結果を生じる。
大恐慌(1930年代)ののち、ケインズは新古典派理論の前提とする、マリアビリティと市場均衡過程の安定性を取り上げて、それが現代資本主義の制度的条件と矛盾していることを明らかにした。
そのケインズは希少資源の私有制と所得分配の公正性についてはふれなかった。
ケインズは、生存権の保障は、じっさいに最低所得水準以下に落ち込んでしまった人たちを事後的に(所得の再分配によって)救済しようというものだった。
つまり、市場経済を構成する人々の所得が最低所得水準まで落ち込んでしまう確率を低くするような、制度的ないしは政策的配慮をおこなうのではなかったのだ。
1960年代半ばから、世界の資本主義は不安定な要素が目立ちはじめ、市場の不均衡が一般的な状況になり、ケインズ主義的な財政・金融政策は有効性を失う。
ここで必要だったのは、 マネタリズム、合理主義経済学、サプライサイドの経済学、合理的期待形成仮説など、、いずれも新古典派の理論前提にもとづくものであって、その理論前提は非現実的であり、政策的性向は反社会的である。
レーガン、サッチャー、中曽根などが新保守主義の旗を掲げて、民間活力ができるだけ有効に働くような制度改革を進めたのは、そういう経済思想を背景としていた。
このような「歴史の捻転」をなんとか是正して、より人間的な、より住みやすい社会をつくるためにどうしたらよいか、という問題を経済学の原点に返って考えようというのが、社会的共通資本の考え方である。 権力者や既得権益層、いうところの上層階級の人々は自分たちの既得権を守り拡大するために、都合のよい理論を、意識的・無意識的に支持し、それがあたかも不磨の大典のように崇め奉る。
自己責任だとか、アベノミクス(なんのこっちゃ?)だとか、国家財政(の赤字)だとか、国際競争力だとか、外交だとか、北朝鮮の脅威だとか、中東の油の確保だとか、、いろんな(屁)理屈を持ち出しては、どんなにアホでも嘘つきでも、今の(新自由主義軌道をアメリカと共に墨守する)自民党政権でなければ、日本はもっとひどい・とんでもないことになると言って、無辜の民を脅しつける。
脅し続けられて、へえそうですか、と我慢しているうちに、とっくに、日本はとんでもないことになっている。
脅されて俯いていることをやめよう。
大学入試だって高校生が声を上げなかったら、ひどい民間会社の餌食になるところだった。
高校生にできたことを大人が出来ないわけがあろうか。
明日という日があるとは限らないし、ね。
何がオリンピックだと、テオクレの怒りが湧いてくる。
一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置を意味する。
社会的共通資本は決して国家の統治機構の一部として官僚的に管理されたり、また利潤追求の対象として市場的な条件によって左右されてはならない。社会的共通資本の各部門は、職業的専門家によって、専門的知見にもとづき、職業的規範にしたがって管理・維持されなければならない。
前にも紹介した文章だが、このところますます、その正当性・妥当性を強く感じる。
一読、そんなことができるわけがないと思うほど、日本およびそれを牛耳るアメリカの実態は、宇沢のいうところと真逆な動きをして憚るところがない。
それで人々が「より幸せな社会を生きる」、望みがあるのならば、それでもいいけれど、事実は、日増しに不幸な人を増やし自殺者を生んでいる。
そのさい、「分配の不公正」という側面を無視し、希少資源の私有化が前提とされ、すべての生産手段がいつでも自由、費用もかけずに瞬時にほかの用途に変更できる(マリアブル)とした。
大恐慌(1930年代)ののち、ケインズは新古典派理論の前提とする、マリアビリティと市場均衡過程の安定性を取り上げて、それが現代資本主義の制度的条件と矛盾していることを明らかにした。
そのケインズは希少資源の私有制と所得分配の公正性についてはふれなかった。
ケインズは、生存権の保障は、じっさいに最低所得水準以下に落ち込んでしまった人たちを事後的に(所得の再分配によって)救済しようというものだった。
つまり、市場経済を構成する人々の所得が最低所得水準まで落ち込んでしまう確率を低くするような、制度的ないしは政策的配慮をおこなうのではなかったのだ。
1960年代半ばから、世界の資本主義は不安定な要素が目立ちはじめ、市場の不均衡が一般的な状況になり、ケインズ主義的な財政・金融政策は有効性を失う。
ここで必要だったのは、
効率化の追求、経済成長という新古典派理論やケインズ経済学の基本的問題意識ではなく、分配の公正性、貧困の解消という経済学本来の立場だった。ところが、じっさいに経済学が進んでいったのは、宇沢がいうところの「歴史の捻転」、反ケインズ経済学と呼ばれるべき、ケインズ以前の新古典派経済学の考え方をいっそう極端に推し進めるものだった。
レーガン、サッチャー、中曽根などが新保守主義の旗を掲げて、民間活力ができるだけ有効に働くような制度改革を進めたのは、そういう経済思想を背景としていた。
このような「歴史の捻転」をなんとか是正して、より人間的な、より住みやすい社会をつくるためにどうしたらよいか、という問題を経済学の原点に返って考えようというのが、社会的共通資本の考え方である。
自己責任だとか、アベノミクス(なんのこっちゃ?)だとか、国家財政(の赤字)だとか、国際競争力だとか、外交だとか、北朝鮮の脅威だとか、中東の油の確保だとか、、いろんな(屁)理屈を持ち出しては、どんなにアホでも嘘つきでも、今の(新自由主義軌道をアメリカと共に墨守する)自民党政権でなければ、日本はもっとひどい・とんでもないことになると言って、無辜の民を脅しつける。
脅し続けられて、へえそうですか、と我慢しているうちに、とっくに、日本はとんでもないことになっている。
脅されて俯いていることをやめよう。
大学入試だって高校生が声を上げなかったら、ひどい民間会社の餌食になるところだった。
高校生にできたことを大人が出来ないわけがあろうか。
国民すべてが経済の本来の意味を心にもう一度呼び覚まし、それを求め声を上げなければなりません。
国は経済の本来の意味「世を經(お)さめ民を濟(す)くう」に立ち返り経済政策を進めるべきだと主張しましょう、高校生たちのように。「高校生にできたことを大人が出来ないわけがあろうか。」
国は経済の本来の意味「世を經(お)さめ民を濟(す)くう」に立ち返り経済政策を進めるべきだと主張しましょう、高校生たちのように。「高校生にできたことを大人が出来ないわけがあろうか。」
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saheizi-inokori at 2020-01-20 15:23
> テイク25さん、無力感は彼らが作り上げたマヤカシにもとづくものだと思います。紋付き羽織で経済演説をする西村大臣、アベ以下、茂木、麻生の施政方針演説は中身もともかくその幼稚な語り口、声だけをとってもどこかの高校の生徒会より劣ります。
これらのどこに我々を無力感に追いやる力、実態があるというのでしょうか!
これらのどこに我々を無力感に追いやる力、実態があるというのでしょうか!
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そらぽん
at 2020-01-20 17:31
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「社会的共通資本」のご紹介講義を感謝します
水が流れる種が零れる写真をありがとうございます
日本人は「大声に引き下がり拳をあげれば蹲る」と某国が
見下しと桜井女しがデマって笑えました 口滑りすぎ~。
「マイナンバーと預金口座を連動。2024年新札切替」高市
の発表も魂胆みえみえ。 真っ当な社会的装置の建営を
訴える京都の福田和人氏の登場がありがたいです。
水が流れる種が零れる写真をありがとうございます
日本人は「大声に引き下がり拳をあげれば蹲る」と某国が
見下しと桜井女しがデマって笑えました 口滑りすぎ~。
「マイナンバーと預金口座を連動。2024年新札切替」高市
の発表も魂胆みえみえ。 真っ当な社会的装置の建営を
訴える京都の福田和人氏の登場がありがたいです。
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saheizi-inokori at 2020-01-20 18:20
> そらぽんさん、もう少し多くの人に理解されるような紹介をしたいのですが、なにぶん本人が半知半解なので。
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j-garden-hirasato at 2020-01-21 07:06
入試制度改革、
一番の犠牲者は、受験生ですね。
一番の犠牲者は、受験生ですね。
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saheizi-inokori at 2020-01-21 09:54
> j-garden-hirasatoさん、親たちも気をもむことったらない、罪深いですね。
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okanouegurasi at 2020-01-22 06:02
社会的共通資本、いいように好き勝手に支配階層にやられてますね。とても勉強になりました。<感謝>
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saheizi-inokori at 2020-01-22 09:28
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Deko
at 2020-01-22 13:11
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日本中インフラが耐用年数を超えているというのに自治体も国もその予算が?橋や環状高速考えると恐ろしいです。知らぬが仏ですね。オリンピックに膨大なお金を投入し続けるその後は。。。。
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saheizi-inokori at 2020-01-22 14:18
by saheizi-inokori
| 2020-01-20 13:00
| 今週の1冊、又は2・3冊
|
Comments(10)