もしもし、どうしてる? 「音楽への礼状」(黒田恭一)
2019年 12月 23日
「もしもし、どうしてる?」すべては、このひとことです。このひとことによって、心ときめかすこともできれば、萎えもします。くぐもったうえに、こっちのでかたをうかがうような粘った声?でなければ恨み節の似合う声?どれも逃げ出したくなる。
かといって朗らかさだけがとりえの声?これもだめ。
「もしもし、どうしてる?」の後の、ほんのわずかの沈黙の間に、火花といえるほど強烈なものではないとしてもふたりの過ぎた日の記憶を背負った思いが、電話のむこうとこっちから放たれ、電話線のなかで微妙に交錯します。(略)どうです?
電話線のむこうとこっちでむかいあっているのが、多少の昨日のある大人であれば、たとえいいたいことがあるにしても、その声があからさまになりすぎては粋とはいえないでしょう。かといって演技で武装した声もいただけません。受話器をとおしてきこえてくる声というのは、とにもかくにもデリケートですから、演技も化粧も通用しません。電話線は、小皺もシミも、唇のぬれ方でさえ、あるがままの状態で伝えます。だから電話では、嘘をついたらいけません。装っても無駄です。
そんな電話をかけたことがありますか、貰ったことがありますか?
そうか、今はラインなのか、マンガのスタンプなのか、それで受信拒否か、そういう問題じゃない。
あなたの声を、ぼくは、ずっと、とびきり素敵な、「もしもし、どうしてる?」をきくような気持できいてきました。というのは、黒田恭一、あなたとはペギー・リーのこと。
「やあ、おはよう。どうした、昨日、あれから?」このひとことが気持よくいえれば、それにこしたことはありません。とはいっても、実際の生活の場では、それがなかなかそうはいかない。これはヨーロッパ室内管弦楽団にあてた礼状の書きだし。
このひとは「一歩ひいたところで語ろうとする慎ましさ」(アンドレ・プレヴィン)とか「世俗の名声とか名誉とか、あるいは財産とかあれこれ、いずれにしても一服するときに飲むコーヒーほどの意味もないものを、いさぎよく無視した」(ジョアン・ジルベルト)音楽が好きで、若い頃から「くる日もくる日も、一日に一度はかならず」、アルトゥーロ・トスカニーニの指揮した「椿姫」の全曲盤(LP)をきいて、オペラが音のドラマであるということを、理屈としてではなく、感覚的に理解できるようになった人なのだ。
そして、マリアカラスへのインタビューへのために早朝からホテルのロビーで待っていて、日曜日なので礼拝に行きたいからと中止になったときに、「どこの馬の骨とも知れぬ人間から根掘り葉掘り無遠慮に尋ねられることを喜ぶ人などいるはずがない」と「音楽家は、ほんとうに大切なことであれば、彼の音音楽で語るはずである」と考えていたから、「そのほうがいいんだ」と納得する人でもあった。
いろんな画風の似顔も楽しく、引きこもりの友として(飛び飛びだが)読んだ。
抗生物質が強引に抑え込んでいるのだから、安静は続けなければならない。
と思いつつも、風呂に入れば桟の汚れを落としたり、ことしのメモ帳を片づけようとすれば棚の整理をしたくなり、掃除機を引っ張り出すとついでにトイレの掃除をしてみたり、、こんなことを書くとさぞかしぼくの周りはきれいに整理整頓されているかのように想像する方もいらっしゃるかもしれないが、、まあ、想像していただいている方がいいか、、そんなことの合間に引用だらけのブログを書きあげた。
朝、ゴミ出しのときに明るいと思ったら、マンションの透けたドアがきれいに磨かれていた。
そんなことが嬉しい。
ところで、このお菓子、頭から食べます? 胴体の一番下から食べます? マフラーから?
それとも・・まさか・・首から切り離しませんよね。