駒沢公園&「ロシア革命100年の謎」&上関原発新設の話
2019年 11月 19日
いぜんは毎日のように夕方になると酒に酔うという酔芙蓉を見に来たのに。
「ギリシャ悲劇研究会」の部室ということになっていたが、革マルのアジトだったかもしれない。
その部屋に名札がかかっている、僕も知っていた男がモスクワの赤の広場で米ソ核実験反対を叫んで、週刊誌にも大きく取り上げられた。
彼はずいぶん後で内ゲバで殺された。
うるささにたまりかねて抗議に行った友人が竹刀でボコボコにやられて帰ってきたが、卑怯で弱虫の僕たちは黙ってしまった、治外法権のような寮で、屋根裏から焼死体が発見されても警察が入らなかったのだ。
あの友人もことし亡くなった。
そんなことを思い出しながら、平和な呑川の落ち葉を眺めて歩いた。
それとも必死に生き残ろうとしているのか。
しまった、まだまだと思っていた紅葉がかなり進んでいるではないか。
歩を速めて(ちょっと膝が痛むけれど)行ってみると、
これからはちょくちょく来なくちゃね。
それにしても、なんとなく貧相になったのは度重なる台風のせいかもしれない。
きのう紹介した「女たちのテロル」が、百年前の日本、イギリス、アイルランドの、ある種の革命を目指した女たちの話であるのに対してこちらはロシアだ。
すっかり楽しませてもらった「モスクワの伯爵」は、ロシア革命直後のロシア社会の様子などを通してロシア人について考えさせる部分もあった。
つまり、読むべきタイミングだということ。
上に書いた学生時代は革命後50年くらいだった。
亀山郁夫は、僕より6つ下だが、「革命に暴力は必要であり、ロシア革命は正義の暴力だった」と考えていた。
学生時代の僕も頭ではそう思っていた。
1954年生まれの沼野充義は、「革命は善であるという前提はもともとなかった」という。
ゴルバチョフのペレストロイカが、革命の暴力に対して拒否的になってきたと亀山。
今はレーニンを否定してスターリンを評価するロシアの若者が増えてきたという話もある。
読んでいるときは、興味津々で目から鱗もパラパラ落ちるのだが、ひと晩寝ると前後の脈絡が、いや、脈絡だけでなく本筋すら曖昧になってしまう。
それでもその時その時の楽しみで本を読む。
受験とか教養を深めるとか、なにかの目的をもって読まない読書が一番楽しい。
言葉、つまり「ロシア語」なんですね、この十年、ドストエフスキーの翻訳に関わりながら、常々実感してきたのは、ロシア語の単語の一つ一つがもつ意味の広がりや奥行きです。(略)ロシア人同士では、おそらく単語レベル以上のものを暗黙に了解している部分がきわめて大きいのではないかと思うのですよ。つまり、ロシア語の単語を発するという行為を通して、ロシア人は一種の霊性のなかに入って行く。(略)グローバリゼーションの圧倒的な進展のなかで英語がここまで支配的になってきてしまい、ロシア語で語られる場が大きく奪われていくと、自分たちのもっている言語と文化、あるいはそれを注ぎ込んでいる精神性、霊性を、全部引き剥がされていく、そんな被害者意識が生まれてこざるをえません。と語る。
短絡的だとは思うが、アベ一味が進めようとする文学的国語の軽視と実用的英語の重視などの教育改悪にも通じる議論かとも思った。
日本人の「霊性」とは「あはれを知る心」とでもいうのか。
瀬戸内海に 原発を新造します。原子力発電所の大爆発・311以降、新たに原発を作ろうという発想……安倍晋三の出身地ならではのクレージーさ加減に、いまさらながら驚愕します。https://t.co/hScuLTl9Uk
— 安保 隆II (@AmboTakashi2) November 18, 2019
どう思われますか?
https://honz.jp/articles/-/45442
ちょつと簡単すぎるのは、まだ続きがあるのかもしれないな。
論理国語と文学国語の違いは古典があるかないかなのですか?
古典をどの程度教えるかにもよりますが、紫式部や一茶や芭蕉を教えないで最高学府に進ませるのは、反対です。現代語ででも教えてやりたいなあ。
古い人間だからでしょうが、文学のない人生は考えられないです。
古典自体を読まない人生でも、季語とか古典に出てくる言葉を使う論理的な文章を書いたり読んだりするでしようし、会話もするのではないでしょうか?
オリジナルな発想とか理解は論理だけでなく、文学的な世界から得られることがあるとも思います。
なによりも、日本会議とかアベたちが考えることに、ろくなものはないという気持ちもありますがね。
Youtube 山口県祝島 ~忘れられない島~
アベ達が国語教育まで手を延ばす。簡易論理フォーム訓練?
「人は脳内で超速回転する無言のコトバを組み合わせ思考する」
コトバの種類量幅深さ曖昧の獲得を基に論理形成で だめなん?
「グローバリゼーションの圧倒的な進展のなかで英語がここまで支配的になってきてしまい、・・・・精神性、霊性を、全部引き剥がされていく」という考察はカタカナ英語が蔓延している日本にも当てはまるのではないかと思いました。どの国の言語もその国の歴史や文化に繋がるもの。英語になんか置き換えられて堪るかと考えています。
上関原発建設計画は1982年頃に持ち上がり、瀬戸内海にある祝島という小さな島の島民が反対の意志を表明してから反対運動が続けられています。touminnokai.main.jp/index.html
漁業と農業を生業とする島民の素朴な生活とその生活の中での原発反対運動をドキュメンタリー映画にした2010年公開の「祝の島(ほうりのしま)」はとてもいい作品でした。
hourinoshima.com/
popcorn.theater/films/108
今では考えられない。
先進国にもならないままに。
先進国から後進国から?貴方はリッチそれともプアー? 一定の見方は出来ない⁉
酔芙蓉か⁈用不要か分からぬが明日も元気でいたい!! 遺体や痛いで無く、、