なぜ?差別をやめられないのか 「『他者』の起源」(トニ・モリスン)
2019年 08月 16日
いつも起きてすぐに読む新聞を読まないまま、ブログに亡妻の「遺言」である「差別は駄目よ」を思い出して、トニ・モリスンの「『他者』の起源」を読もうと書いたら、朝日にモリスンを悼む西加奈子の寄稿が載っているではないか。
僕は76歳でふらりと入った書店でこの講演録を買ったのだ、トニ・モリスンを知らなかったけれど。
買っても読まないでいたら、モリスンの訃報を聞き、テレビでオバマの「彼女と同じ空気を吸っていたことを感謝する」みたいなコメントを知った。
奴隷が「異なる種」であることは、奴隷所有者が自分は正常だと確認するためにどうしても必要だった。人間に属する者と絶対的に「非・人間」である者とを区別せねばならぬ、という緊急の要請があまりにも強く、そのため権利を剥奪された者にではなく、彼らを創り出した者へ注意は向けられ、そこに光が当てられる。(略)奴隷所有者の感覚は奇怪きわまりない。まるで、「俺はけだものじゃないぞ!俺はけだものじゃないぞ!無力なやつらを虐めるのは、俺さまが弱くないってことを証明するためさ」と吠えているようだ。今朝もアメリカのニュースで、丸腰の黒人少年を後ろから射殺した警官のことが伝えられている。
「よそ者」に共感するのが危険なのは、それによって自分自身が「よそ者」になりうるからである。自分の「人種化」した位置を失うことは、神聖で価値ある差異を失うことを意味する。
自分の故国では想像さえしなかった者に変わらなければならない。白人になること。それは心地よいかもしれないし、そうではないのかもしれないが、いずれにしろ白人でありつづけると、具体的な自由と共に有利な面を備えることになる。その事例が「パラダイス」という作品、図書館に予約した。
多くの文学が詳細に物語っていることだが、アフリカ人とその子孫には、この選択肢はまったくない。わたしは肌の色ではなく、文化によって、黒人像を描き出すことに興味を持つようになった。
西は、
なぜ残酷なことがまかり通っているのか?と書いている。
なぜそれが人間によってなされるのか?
モリスンに与えられた「なぜ?」は私の中にある。おそらくモリスンを読んだ世界中の人の中にも。それは、絶対に消えないだろう。絶対に。
西は17歳で『なぜ?』を与えられて、考えるきっかけを与えられて作家になったという。
76歳・僕は作家にはならないが、考えることは止めないようにしよう。
亡妻はこの病院で山崎章郎医師に最後の日々を看取ってもらった。
まだ独立したホスピス病棟はなく、はじめは無理やり小児科の病室に入れてもらった。
山崎先生や看護師、ボランテイアの皆さんのおかげで亡妻も僕たち家族も人間らしく最後の日々を送れたと思う。
山崎先生の言葉も載っていて、あの「お、酒盛りですか、いいですね」と笑った顔を思い出した。
缶ビールを盃に注いでやって、乾杯していたのだ。
帰り道で、どこかから「ぶおっ」とおならのような音が聞こえて、あたりを見回したら、駐車してある車の陰で、○○座りをして煙草を吸っている男が犯人だった。
それを合図に強い雨が降り出して、子供の頃を思い出しながら、いい気持で濡れて帰った。
私も、答えは中々出せないけど、考えることは止めないで生きようと思いますね。
山崎章郎さんの『病院で死ぬということ』読んだっけ。
続編も多く書かれているのですね。