たとえ縛られていても 狂言「棒縛」&能「道成寺」
2019年 01月 26日
狂言、能ともに幕藩体制が崩壊したあと、大名の扶持を失い困窮のなかで、なんとか保存し続けた「棒縛」と「道成寺」に用いた装束を使用して豪華メンバーで演じるのだ。
12月には宝生流で上演されたが、行かれなかったので、今日は必見。
狂言「棒縛」
次郎冠者(山本則重)がシテをやるという珍しいけれど人気の演目。
主(山本東次郎)の留守に太郎冠者(山本則秀)と次郎冠者は盗み酒をするくせがあるので、主は一計を案じて、まず太郎冠者を言い含めて次郎冠者をだまして、習っている棒術を見せろといい、次郎冠者が意気揚々といろいろな型をみせていると後ろから棒に縛り付けてしまう。
そして太郎冠者をも後ろ手に縛ってしまう、パワハラだ。
主の出かけた後の、ふたりは酒が飲みたくてたまらない、「飲まれぬと思えば、なおなお酒が飲みたいものじゃ」、次郎冠者が縛られた指先が動かせることに気づく。
その指先で蔵の戸を、グァラリ、グアラリ、、開けてしまう、なかにおびただしい酒壺。
匂いをかいで、桶の蓋で酒をすくって太郎冠者に飲ませ、さて自分も飲もうとすれども、磔になっていては飲めない。
太郎冠者が思いついて、自分の後ろ手に持たせろ、そこから飲めるだろう。
盗み酒のうまいこと、ふたりはいい機嫌になって歌ったり舞ったり(縛られたままで)
十七八は、竿に乾いた細布。取り寄りゃ、いとし、たぐり寄りゃ、いとし。糸より細い腰を締むれば、い、たんと、なおいとし。きれいな声で歌った狂言小歌、ちょっとエロティックな感じがした。
主に一人で向きあえば抜け駆けをしようとしたり、責任のなすり合いをするくせに、二人になれば知恵を出し合い、窮すれば通じて和気藹々に遊ぶ。
不自然な体で難しい動作を美しく演じる、写真↑の載っている本のなかで千作(先代)が「私も年がいったので、長い間棒を振る力もなくなってるし、じつは棒に縛られたままで立てませんのや」と語っている。
ワキの重々しい名のりに始まり、長い低い遠吠えのような掛声、裂帛の気合、小鼓と大鼓に誘われて登場したシテの「作りし罪も消えぬべき」への流れは格別だ。
乱拍子に入る前の亀井広忠の絶叫ともいえる声と大鼓を受け取った大倉源次郎が、高く吠え、低くうなり、むせび泣き、しぼりだし、また吠えて、延々10分以上、シテは、つま先を上げ、微妙な間をおいておろし、ぴくっと動かし、身体を回し、静止して、なにを考えているのか、またつま先を上げ、、迷っているのか。
ふたりの真剣勝負に息が詰まる。
笛・竹市学が前後を哀しくなるほど美しく飾る。
朗々たるシテの謡、地謡もすばらしく、音楽としての能もすごいなあ。
いままでものすごく混んでたのよ、佐平次さんはいいところにくるね。
もう、やめなよ!突然大きな声、マスターが有無を言わさずお説教を断ち切った。
「そういう話はこういうところでするもんじゃない、みんないい気分で酔ってるんだから」、そうだそうだ。
その客も帰る時はマスターと握手して行った。
「はじめ」の居心地の良さは自然に出来上がったのではないんだね
TPOなんて忘れちゃう 気を付けないとね
さすがは納豆稲荷を開発しただけのことはありますね。
日本がヒドイことになってる今だからこそ、日本と韓国そしてDPRKは手と手を携えて友好的な関係を築かなくてはならないのです。
そのためには些末なことに争そっている場合ではないのです。
日韓関係を批判するならするで、もっと建設的な意見をいうべきでしょう。