へそ曲がりであれ
2018年 12月 18日
リハビリ中の右肩というより右腕が痛むが気にしてはいられない。
でも、すぐに嫌になって、もう適当なところでやめようと思うのは、去年と今年の一年の加齢がずしっと効いている。
ブラシのあと、雑巾、そのあと乾いた化学雑巾、シャツ一枚でも背中がポカポカ汗をかく。
内側(Tシャツと化学雑巾)をやりだすと、「適当なところ」が気になって、また外に出てごしごし。
若い頃のように何もないかのように磨き上げることはできなかったが、やらないよりはましでしょう。
オスプレイがもっと近くを飛ぶ沖縄の人たちの気持ちの一端を感じる。
家に近づくと、道をトラロープでふさいで警察官が「事故の捜査中なので、迂回して下さい」。
家の前まできたら、向かいの奥さんがいたので、ヘリのことや道路封鎖のことを言ったら「小学生がバスにはねられたんですって、、亡くなったそうです、一年生」と痛ましい顔で教えてくれた。
世田谷区はバスの町、住宅街の細い道でもしょっちゅうバスが走っている。
痛かっただろう、かわいそうに、親たちも。
1・個人であれ、グループであれ、軍事化社会に対する異議申し立てをしている人々についての情報を共有すること、できれば応援し、またできれば参加すること。
たとえば、沖縄、辺野古での米軍基地建設反対の戦い。
2・日頃から異議申し立てをする「不合意(デイセンサス)個人」を自分のうちに養っておくこと。また「不合意個人」の異議申し立てに連帯の意を表すこと。
「不合意個人」とはフランスの社会学者ジャン・ボードゥリヤールが「合意個人」と対立させて作った言葉。
個人とは本来、集団のコンセンサスに異を唱える「不合意個人」であった(西洋近代社会の「個人」の定義か)。
それがポストモダンの個人は「合意個人」になって欲望個人、エゴイスト個人、消費個人、快楽個人、ナルシスト個人になってしまった。
日本社会は「分をわきまえ」「空気を読み」「忖度し」、、不合意個人であったことはない。
加計学園事件における文科省職員の内部告発や東京新聞社会部望月記者の官房長官に対する食い下がりなどは不合意個人の事例。
3・権力の発する言葉の誤用、言葉の詐術を暴くこと。
「テロとの戦い」「日本を取り戻す」「戦後レジームからの脱却」「積極的平和主義」、、枚挙にいとまがない。
4・良心的拒否、不服従の思想をどう生きるかについて考えること。
「国のために」人を殺せるか。
テイクさんから拝借、
辺野古の土砂投入 上伊那で抗議の声 「沖縄だけの問題ではない」
信濃毎日新聞の記事、これもテイクさん。
海老坂によれば人のフンドシも、むしろ推奨すべし。
戦争文化が蔓延している昨今、世の流れに無自覚に沿ってしまわないように何と言われても自分を持ち続けていきたいものです。
デモ警備中の警官達がヘルメットを外し顔を出し連帯を示した事も海外だでバッサリこん。「不同意個人」明解よき言葉ですね!日本人は役割や立場(XX会社社員や母や警官)の役を演じ過ぎ~