「礼」の本質は知らない・分からない想念を「敬」すること 川越宗一「天地に燦たり」
2018年 12月 08日
行けば「あ、わんちゃんだ!」と喜んでくれるのに。
なんだか電線に止まった鳥のようだ。
秀吉の朝鮮侵略が、三人の運命を翻弄するが、彼らはひるまない。
誠を尽せばなんとかなる。生まれも育ちも異なる三人は、天地と参なることを志す儒学の徒なのだ。
学び磨けば、人は誰でも聖人に至り得る。万物で唯一その可能性を持つがゆえに、人は天地と参なるべし。天地と三つ巴に並ぶ偉大な存在である。
一事が分かり合えずとも、十全に人を分かつ因(よし)にはなりません。人を敬するとは、突き詰めれば分からぬ想念を敬する心。あるいは想念を知ってこそ初めて芽生える心、、、でなければ、そもそも人は、人と交われませぬ。外つ国へ航るなど、とうてい成し得ませぬ。首里城にあった「守礼の邦」の文字、万国津梁館のことなどを思い出す。
敬がなればこそ、礼が成る。礼が成ればこそ、万国の津梁と成るのです。
礼なき者は禽獣に等しいなどと言われると山猿・礼儀知らずで押し通してきた我が身をどう始末したらいいかと思う。
だが、礼の本質はお辞儀三昧や堅苦しい儀礼にあらずして、「分からぬ想念を知り、敬する」ことだと言われればいささかホッとする。
分からない宗教、ことばをつかう人をゆえなく蔑み嫌悪し排除すること、右も左もわからない外国の人を奴隷のようにこき使いながら、日本人同士では「お行儀よく」付き合う、、どちらも「礼」とは隔絶した生き方、虚礼とはよくいったものだ。
「なあ、礼を知らぬ樺山よ」棘のある言葉だが、洪の声は諭すような和やかさがあった。
「礼を説く大明国を目指し、礼を貴ぶ朝鮮国を攻め、礼を守る琉球国を獲る。この後、倭は、どこへ行くんだ」
なあ、アベよ、日本はどこへ行くんだ?活劇ものとしても面白く読める。
創意工夫、天晴れ。
文藝春秋
そのご質問につきましてはですね、えー、ワタクシはですね、ワタクシはただの “みこし” でありまして、そのー、お聞きになりたければですね、えー、つまり、経済界のダンナ衆ですとか、ナントカ会議の方々ですとか、各省庁の官僚の皆さま方、あるいはですね、アメリカ様、そういった方々にご確認いただきたいわけでございまして、ワタクシに聞かれましてもですね、お答えのしようがないわけでございます。
いずれにいたしましても、いずれにいたしましてもですね、ワタクシといたしましては、しっかりと、これらの方々の意見に耳を傾けてですね、しっかりと、ニッポンのかじ取りをしてまいる所存でございます。
BY アベ
既に低賃金で働く日本人と、外国の労働者を過酷に競わせ
いっそう賃金を抑え、更なる搾取が狙いですね Frischの
「労働力を呼んだつもりが人間がやってきた」で代々永住。