そうだ京都もいきたい 日本精神史(下)

小雨があがったので洗濯物をベランダに干し直してサンチを連れて出た。
2700歩、今時点で過去30日の歩数平均が8663歩だ。
ちょっと前までは6千歩を目指していたのが、一昨日はとうとう9千歩に達したが、昨日は夕方雨もよいでこもり切り、ぐっと減ってしまった。
8千歩くらいがいいところだが、こういうアプリがあるとつい後9百歩で平均が30歩上がって8千歩に届く、などとがんばってしまう、青空・澄んだ空気を楽しみたいしね。
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ゆうべ録画しておいたテレビを見ていたら、奥会津の三島町のことが出てきた。
たしかハルさんの住んでいる近くかな、とボール紙の裂き織らしきものなども見ながら楽しんだ。
そのうち猛烈に行きたくなってスマホで調べてみたら、家から5時間半、かなり遠いが思ったほどではない。
だが、宿となると紅葉の季節、しかも一人泊のせいか、空いていない。
会津坂下や猪苗代にいたのは半世紀も前のこと、雪の凄さはよく覚えているが、秋の紅葉についてはほとんど記憶がないのはどうしたことか。
仕事に夢中でもあったが、若いうちはしみじみ四季の味を楽しむということでもなかったのだろう。
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久しぶりの長谷川先生は、「禅の造形美ー鹿苑寺金閣と慈照寺銀閣と龍安寺石庭」だ。
たとえば晴れた日に空の青、樹々の緑、金閣の金色のなす対照の鮮やかさは見る者の目をひきつけずにはおかず、水面に映った影の対照までもがなんとも美しい。水面に小波が立って形と色に崩れが生じると、その崩れがまた美しい。
金閣の美しさを僕はどれだけちゃんと鑑賞してきたのか、
建物と風景が遠くからゆったりながめやるように作られていることが、改めていえば、人を愉楽の気分へと誘う。どこにどう身を置いても、金閣のまわりの場景は宗教的な求道や祈りからは遠い。逆にいえば、そういう場であるからこそ、わたしたちは光り輝く金色を明快な美しさとして受け容れることができる。
確かに、求道なんて気持ちはこれっぽちもなかったなあ、それは今もか。
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権力の誇示が反自然のきらびやかさにまで至った金閣に比べると、銀閣、東求堂その他の建物は、自然とともにあろうとするものだったし、自然のほうも、建物の引き立て役として後景に退くというより、建物と共存しつつ四季折々の変化を示すよう設えられていた。
長谷川は銀閣における苔の美しさとそのつつましさが庭園全体の閑寂な雰囲気にまことにかなっているという。
慈照寺の庭園では、苔むした地面や岩があちこちで池の水と接している。そこでは、苔の緑がなだらかに水の緑へと移っていく。水には動きがあって、その動きが苔の命に共鳴するかに思え、ために、水のほうが土や砂や石よりもゆたかに苔の命と行き来しているように見える。水のほうがたっぷりと苔の命に染まり、その命がそこから水際の土や石や岩に伝わっていくように思える。
苔を慈しむことは、いうならば鉱物質の自然と植物質の自然との結びつきを楽しむことだ。
銀閣の閑雅な風景はそこにいる者の心を安んじて内に向かわせる。
こういう場がなりたったのは、戦乱の世という時代状況と禅宗の広がりという歴史的条件があった。
座禅や瞑想に通じる静寂と思索の場である銀閣は、華麗な愉楽の場である金閣よりずっと宗教に近い。
だが、宗教的な精神に固有の、自然を超えようとする集中力はそこに見出しがたい。
心に浮かぶ思いをゆったりと追いかけるのにふさわしいといえる。
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(龍安寺の)枯山水が生まれるには、ゆたかな自然、目を楽しませる自然とは別の自然を造形しようとする造形意思が、造園者のうちに芽生えねばならなかった。造園の伝統のうちに長く受け継がれてきた自然観を否定するような思想原理が、造園者の心をとらえなければならなかった。
その思想原理は、空や無の観念と自然とを結びつける思想原理であり、自然の樹木や岩石のうちに、古来の美意識を踏みこえる宗教的な意味を読み取ろうとする思想原理、つまり禅的な思想原理であった。

すぐれた造園技術に支えられて、自然を抽象化した美しい庭が出来た。
十五個の石と白砂で構成された幾何学的な平面が、見る者に統一感と清涼感をあたえつつも。場の全体が漠たる空間にならないこと。
ここで人は自分と向き合い、世界と向き合って思索を深める。
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だが、美しいものは、いったん集中した精神をふたたびそこに向かわせる。
石庭の作り手たちは自然の抽象化を極限まで追求しつつ、そこになお自然の美に拮抗する空間を造形する、という逆説的な努力を強いられたのだったが、石庭の鑑賞者は鑑賞者で、求道の宗教心と、心のゆとりとともにある美の享受との矛盾を、たえず突きつけられるもののごとくである。
もういちど、京都に行かなければならない。
ただし空いているときにね(そんなときがあるのか)。

Commented by unburro at 2018-11-05 15:30
石庭の鑑賞者が突きつけられる矛盾…
その矛盾に対峙しつつ、
「まあ、いいか」と手足を投げ出し深呼吸する自由も
石庭は与えてくれるような気がします。
だから、
京都、来て下さいよ!
有名どころを避ければ、空いている所も
無いことは、無いです。
(しかし、秋は、交通機関と宿が無理かな…)
Commented by saheizi-inokori at 2018-11-05 16:26
> unburroさん、だって金閣寺も銀閣寺も石庭も超有名どころじゃないですか。
とりあえず紅葉の終わった会津に行こうかと、外れ隠居は愚考しています。
Commented by kogotokoubei at 2018-11-05 18:46
以前は、11月に京都で大学の同期会を開くことが何度かありましたが、宿の確保に幹事が苦労するので、やめました。
しかし、学生時代はランニングコースでしかなかった金閣や銀閣、嵐山や鞍馬、三千院などは、あらためてじっくり訪ねてみたいものです。
でも、佐平次さんお書きのように、オフシーズンが存在しないのが京都かもしれません。
Commented by saheizi-inokori at 2018-11-05 18:59
> kogotokoubeiさん、いつでも見られると思うと案外見ないってことがありますね。
それが京都だとずいぶんもったいない。
東京をよく見ていないのも。
Commented by maru33340 at 2018-11-05 19:06
京都は6月と2月の平日は比較的空いているかも知れません。
Commented by otebox at 2018-11-05 22:04
是非是非!王道を外した田舎廻りを薦めます。
身贔屓ですが南山城の「浄瑠璃寺」と「一休寺」が近くなもんで一押し、案内いたします。
Commented by saheizi-inokori at 2018-11-05 22:19
> maru33340さん、ありがとう。昔「冬の京都」というキャンペーンがありましたね。あれは閑散期対策だったのでしょう。冬枯れ、梅雨の京都もいいなあ。
Commented by saheizi-inokori at 2018-11-05 22:21
> oteboxさん、「浄瑠璃寺」は素晴らしいですね、一休寺は未体験ですが。
Commented by ikuohasegawa at 2018-11-06 06:12
そうだ日本精神史も読まなきゃ。
このところ、御無沙汰してしまいました。
Commented by j-garden-hirasato at 2018-11-06 06:35
無性に、
京都の庭園探訪、
したくなりました。
一人で。
家族に怒られちゃうかな。
Commented by at 2018-11-06 06:44 x
京都は11月の季語、なんてぇ意味不明なことを思いながら、旅先のバスの一景を思いだします。
「あのなぁ、おかあちゃんがな~」「へ~、そうかいなぁ~」
女子高生が老婆のごときゆったりした口調で語り合い、欠伸指南されているようでした。
Commented by saheizi-inokori at 2018-11-06 09:01
> ikuohasegawaさん、少しずつ少しずつ、です。いつかは読み終える。
Commented by saheizi-inokori at 2018-11-06 09:02
> j-garden-hirasatoさん、日頃の行いがよければね。
Commented by saheizi-inokori at 2018-11-06 09:05
> 福さん、旅の楽しさは人びとの会話の盗み聞きにあり!五感をフル稼働、匂いもありますね。
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by saheizi-inokori | 2018-11-05 13:19 | 今週の1冊、又は2・3冊 | Trackback | Comments(14)

ホン、よしなしごと、食べ物、散歩・・


by saheizi-inokori