そうだ京都もいきたい 日本精神史(下)
2018年 11月 05日
2700歩、今時点で過去30日の歩数平均が8663歩だ。
ちょっと前までは6千歩を目指していたのが、一昨日はとうとう9千歩に達したが、昨日は夕方雨もよいでこもり切り、ぐっと減ってしまった。
8千歩くらいがいいところだが、こういうアプリがあるとつい後9百歩で平均が30歩上がって8千歩に届く、などとがんばってしまう、青空・澄んだ空気を楽しみたいしね。
たしかハルさんの住んでいる近くかな、とボール紙の裂き織らしきものなども見ながら楽しんだ。
そのうち猛烈に行きたくなってスマホで調べてみたら、家から5時間半、かなり遠いが思ったほどではない。
だが、宿となると紅葉の季節、しかも一人泊のせいか、空いていない。
会津坂下や猪苗代にいたのは半世紀も前のこと、雪の凄さはよく覚えているが、秋の紅葉についてはほとんど記憶がないのはどうしたことか。
仕事に夢中でもあったが、若いうちはしみじみ四季の味を楽しむということでもなかったのだろう。
たとえば晴れた日に空の青、樹々の緑、金閣の金色のなす対照の鮮やかさは見る者の目をひきつけずにはおかず、水面に映った影の対照までもがなんとも美しい。水面に小波が立って形と色に崩れが生じると、その崩れがまた美しい。金閣の美しさを僕はどれだけちゃんと鑑賞してきたのか、
建物と風景が遠くからゆったりながめやるように作られていることが、改めていえば、人を愉楽の気分へと誘う。どこにどう身を置いても、金閣のまわりの場景は宗教的な求道や祈りからは遠い。逆にいえば、そういう場であるからこそ、わたしたちは光り輝く金色を明快な美しさとして受け容れることができる。確かに、求道なんて気持ちはこれっぽちもなかったなあ、それは今もか。
権力の誇示が反自然のきらびやかさにまで至った金閣に比べると、銀閣、東求堂その他の建物は、自然とともにあろうとするものだったし、自然のほうも、建物の引き立て役として後景に退くというより、建物と共存しつつ四季折々の変化を示すよう設えられていた。長谷川は銀閣における苔の美しさとそのつつましさが庭園全体の閑寂な雰囲気にまことにかなっているという。
慈照寺の庭園では、苔むした地面や岩があちこちで池の水と接している。そこでは、苔の緑がなだらかに水の緑へと移っていく。水には動きがあって、その動きが苔の命に共鳴するかに思え、ために、水のほうが土や砂や石よりもゆたかに苔の命と行き来しているように見える。水のほうがたっぷりと苔の命に染まり、その命がそこから水際の土や石や岩に伝わっていくように思える。銀閣の閑雅な風景はそこにいる者の心を安んじて内に向かわせる。
苔を慈しむことは、いうならば鉱物質の自然と植物質の自然との結びつきを楽しむことだ。
こういう場がなりたったのは、戦乱の世という時代状況と禅宗の広がりという歴史的条件があった。
座禅や瞑想に通じる静寂と思索の場である銀閣は、華麗な愉楽の場である金閣よりずっと宗教に近い。
だが、宗教的な精神に固有の、自然を超えようとする集中力はそこに見出しがたい。
心に浮かぶ思いをゆったりと追いかけるのにふさわしいといえる。
(龍安寺の)枯山水が生まれるには、ゆたかな自然、目を楽しませる自然とは別の自然を造形しようとする造形意思が、造園者のうちに芽生えねばならなかった。造園の伝統のうちに長く受け継がれてきた自然観を否定するような思想原理が、造園者の心をとらえなければならなかった。その思想原理は、空や無の観念と自然とを結びつける思想原理であり、自然の樹木や岩石のうちに、古来の美意識を踏みこえる宗教的な意味を読み取ろうとする思想原理、つまり禅的な思想原理であった。
すぐれた造園技術に支えられて、自然を抽象化した美しい庭が出来た。
十五個の石と白砂で構成された幾何学的な平面が、見る者に統一感と清涼感をあたえつつも。場の全体が漠たる空間にならないこと。
ここで人は自分と向き合い、世界と向き合って思索を深める。
石庭の作り手たちは自然の抽象化を極限まで追求しつつ、そこになお自然の美に拮抗する空間を造形する、という逆説的な努力を強いられたのだったが、石庭の鑑賞者は鑑賞者で、求道の宗教心と、心のゆとりとともにある美の享受との矛盾を、たえず突きつけられるもののごとくである。もういちど、京都に行かなければならない。
ただし空いているときにね(そんなときがあるのか)。
その矛盾に対峙しつつ、
「まあ、いいか」と手足を投げ出し深呼吸する自由も
石庭は与えてくれるような気がします。
だから、
京都、来て下さいよ!
有名どころを避ければ、空いている所も
無いことは、無いです。
(しかし、秋は、交通機関と宿が無理かな…)
とりあえず紅葉の終わった会津に行こうかと、外れ隠居は愚考しています。
しかし、学生時代はランニングコースでしかなかった金閣や銀閣、嵐山や鞍馬、三千院などは、あらためてじっくり訪ねてみたいものです。
でも、佐平次さんお書きのように、オフシーズンが存在しないのが京都かもしれません。
身贔屓ですが南山城の「浄瑠璃寺」と「一休寺」が近くなもんで一押し、案内いたします。
このところ、御無沙汰してしまいました。
「あのなぁ、おかあちゃんがな~」「へ~、そうかいなぁ~」
女子高生が老婆のごときゆったりした口調で語り合い、欠伸指南されているようでした。