目をつぶらないで 映画「ヒトラーと戦った22日間」
2018年 09月 12日
ポーランドのソビボル絶滅収容所に蒸気機関車にひかれた列車が着くと、囚われのユダヤ人たちが歓迎の演奏を行い、拡声器からは「新しい人生が始まる」というメッセージが放送される。
ぞろぞろ降りてきたユダヤ人たちは、一時的な手続きだという言葉を信じて男と女、手に職のある者に分けられ荷物を預けさせられる。
僕はこの後に続く地獄図絵を知っていながら、到着直後のユダヤ人たちの一種の期待すら感じられる興奮の喧騒を見ている。
お兄ちゃんと一緒にいたいという可愛い女の子を兄がすぐにまた会えるからと説得して、父母と一緒に行かせる。
まず女性からと言われて、二日間シャワーを浴びられなかったことに不満をいいながら、裸にされ髪の毛を切られガスシャワー室に入っていく。
映画が始まってすぐに女性たちの死体の積み重なったガス室の映像なのだ。
脱出を試みた者たちが殺されると囚人たちは整列させられて10人おきに一人づつ銃殺される。
毎日煙突から煙が昇る。
無理難題をふきかけて気が済むまで鞭打ちを繰り返す。

仕事を与えられて一日一日生き延びているユダヤ人たちだけでなく、加害者であるナチスの連中さえも目をそむける地獄。
呵責の念に堪えられないナチはユダヤ人が劣等であることを叫びますます狂暴になり、指令官はユダヤ人嫌いの父親が悪いのだと叫ぶ。
父親とはヒトラーか。
慰問のナチスたちとの酒盛りのアトラクションはユダヤ人に将校がのった馬車を引かせての馬車レースだ。
鞭を揮われ全力疾走の果てに力尽きると容赦なくそこで銃殺される。
狂気と死臭が支配するポーランドのソビボル収容所の日々の、その暗闇でひそかに脱出計画が練られる。
ソ連軍人・サーシャはリーダーになることを求められ自分たちだけでなく全員を逃がすのだと宣言する。
サーシャの人並外れた力量や自己犠牲的な行動のエピソードが描かれる。
彼のリーダーシップが功を奏するのはその力量とメンバーの信頼をかちえたからだろう。
決行の日、ナチス将校たちが一人づつ殺されていく。
パリから届いたばかりの皮のコートがあると誘き出すのは年端も行かない少年だ。
殺すのも、一介の市民だった人たち、人を殺す・殺したことに怯え衝撃をうける。
1943年9月23日から10月14日までの、実際に起きた奇跡だ。

映画そのものの出来はイマイチだが、何と言っても素材が素材だ、見るにしかず。
爺さんが多かった。

映画館へ行くの、無理…かも……
単なる殺人、残虐というようなレベルを超えた想像力の限りを尽くす「狂った」行為を、普通の人がやるというのが怖いです。
勧善懲悪という単純な図式ではないのですものね。
普通の人間が異常な殺人も出来てしまう狂気、今なお世界中で起きている殺し合いに、せめて正常な感覚を持っているうちに9条を掲げて立ち向かいたい。(戦争はアメリカの公共事業、という表現をどこかで見たことがありますが、もしそうだとすれば何と馬鹿馬鹿しく世界中が躍らされている事か。)
観ようと思っていた映画だけれどちょっと戸惑ってしまいます。

怖い

のは本当にとっても怖ろしいです。。。
きょうは議会でメルケルと他党議員間で激しい論争あり。
ナチのした行為への謝罪抜きでは語れない、移民受け入れ
と派生する諸問題がテーマ。日本も戦争で犯した残虐行為の
検証に目を向ける勇気知性が必要だわと思います。
脱出した400人のうち、100人近くが途中で死に、150人が住民に殺されたということでした。
辛いけれど、出来はともかく、やはりご覧になった方がいいとお薦めします。
その名に相応しい作品の上映。観に行きたいです!
人はここまで残酷になれるのかと、背筋が凍る思いです。
そんな残酷な行為をする人にはなりたくないと思いながら、戦争という名の下でどれだけの人が戦争だから、敵だからという理由で殺戮行為に無頓着になって行く姿がそこにあります。
これは、決して過去の出来事、特殊な考えの人だけがした出来事ではないと思います。
今回のsaheiziさんの記事を読んで、もう一度五味川純平の人間の条件を読みたくなりました。
あまり観たい映画ではありませんね。
世界中で今も起きている残虐行為。
一人一人の命の数を数字で表されてもひとりひとりは一度しかない人生。
今の施設などでの虐待に近い扱いも人を人と思わなくなってしまう精神構造なのでしょう。規模は違っても同じに思えます。
女性への性暴力だって同じです。ひとりの人生が終わってしまう事です。
私はこの映画はみられませんね。
母子家庭や生活保護の世帯、障がいのある人など、社会的弱者に対して「自分より優遇されている」という不満をあらわにする人たちを見ると、この国も独裁者に簡単になびいていく恐ろしさを覚えます。
「日本の崩壊」を読むと貴種尊重が日本人にもあって、安倍も政治家のなかでは貴種ということになるのだそうです。
並列の男に上に立たれるのは許さないが、○○の息子や孫なら許せるというのですね。
まったく私には理解できないのですが、独裁はこんなところからも成立していくのかも。