半分、がちょうどいい 加藤周一「能と狂言の時代」@「日本文学史序説(上)」
2018年 08月 25日
夕方、クリニックでリハビリして薬をもらおうと出かけてみたら、夏休み中。
帰りのバス停でスマホのバス運行情報を見ていたら「便利なものが出来ましたねえ、ウチの孫も5歳なのにそういうのドンドンやっちまう」と、ときどきこの辺のバス停で遭遇するおばあさん。
「きのう、岡山まで旅芸人里見なにがしを追っかけてきましたよ」、80歳、娘さん(50代)も好きだから二人でいく、「11月は浅草なの、楽しみだなあ」短いバスの時間、老人二人で大声で話が弾んだ。
呑川に寄ってみたら、ああ、夜になるとここに来るのか、ホームレスみたいな住まいだな。
お母さんがちょっと距離を置いてるのは敵を警戒しているのか。
こっちが子供三羽、よく見ないと分からない。
マンションの前で上のタケちゃんとママにあった、「さんちゃんは?」「足が痛いから散歩してないんだよ、サンチはあれでもお爺ちゃんなんだよ」。
保育園が夏休みだから、「なんかいろいろやる」塾に行った帰りだそうで、体操も習いに行ってると元気な返事、二階で別れるときにエレベーターのドアを開けたまま見送ってくれていたら、サンチが飛び出してあっというまにタケちゃんの足を舐めようとする。
(夕方の月)
クリニックは休みでも、楽しいミニトリップが出来た。
長谷川宏「日本精神史」と並行して読んでいる、加藤周一「日本文学史序説」は長谷川と違った視点からいろいろ教えてくれる。
日本の14・15世紀、内乱と一揆の時代に、なぜ世界(とくに中国)に見られないような画期的な演劇が生まれたか。
(夜の月)
加藤は世阿弥の観阿弥と違う工夫・独創について、「題材を大衆的な伝説の主人公(小町や曽我兄弟)ではなく、主として『平家物語』の武将や平安時代の古典の主人公にとり」、「劇的緊張を複数の人間相互の対立にではなく、一人の主人公の『変身』に集中し、内面化した」という。
すなわち現世の人間が亡霊に変身する夢幻能、今僕が最もなじんでいる幽霊の話だ。 (青い柿の実がたくさんなっている)
能の独創性とは、第一に、その表現の経済。
こうやって引用してくると能(狂言も)と落語は似ているところが多い。
とくに観客の想像力に訴えて劇的世界を作りだすなんてところが。
涼しくなったし、タケちゃんたちとも逢わせてやりたくてサンチの散歩を再開した。
リードなどのお散歩グッズを用意しているとすっ飛んできて足もとでインデイアンダンス、嬉しいと踊るのだ。
いっしょに歩いていると、「ああ、これが僕の生活だ」という満ち足りた思いが湧いてくる。
朝のバタバタがさらに大変になるが、続けよう、な、サンチ。
でも前の半分だよ、もっと歩きたいと玄関から入ろうとしない。
帰りのバス停でスマホのバス運行情報を見ていたら「便利なものが出来ましたねえ、ウチの孫も5歳なのにそういうのドンドンやっちまう」と、ときどきこの辺のバス停で遭遇するおばあさん。
「きのう、岡山まで旅芸人里見なにがしを追っかけてきましたよ」、80歳、娘さん(50代)も好きだから二人でいく、「11月は浅草なの、楽しみだなあ」短いバスの時間、老人二人で大声で話が弾んだ。
お母さんがちょっと距離を置いてるのは敵を警戒しているのか。
こっちが子供三羽、よく見ないと分からない。
保育園が夏休みだから、「なんかいろいろやる」塾に行った帰りだそうで、体操も習いに行ってると元気な返事、二階で別れるときにエレベーターのドアを開けたまま見送ってくれていたら、サンチが飛び出してあっというまにタケちゃんの足を舐めようとする。
クリニックは休みでも、楽しいミニトリップが出来た。
日本の14・15世紀、内乱と一揆の時代に、なぜ世界(とくに中国)に見られないような画期的な演劇が生まれたか。
おそらくそれ以前に芸術家を生みだしてきた階層とは全く異なる階層から、芸術家があらわれるようになったからそれは、
第一には、この時代に発達した農商業が広汎な大衆のなかから専門的芸術家のあらわれる可能性をひらいたということと、第二の条件は、
内乱を通じて成り上がった武士支配層が、みずから芸術的教養を備えていた貴族の場合とは異なり、彼ら自身の娯楽のために専門的芸術家を必要としたということ連歌師が本来貴族の文学を大衆化したのに対し、能・狂言の作者=役者は、本来大衆の演芸を貴族化した。
藤原時代の宮廷貴族と大衆との距離は無限に遠かった。徳川時代の武士支配層は、あらゆる面で大衆との距離を強調することに全力を傾けた。しかし足利将軍家と大衆との間は、いずれの側も、「能」と「狂言」の双方をたのしむことができるほど近かった。このことが世阿弥たちの工夫・精進の賜物であった側面について
いわば「目利き」と「目利かず」の双方を満足させたのだ。評したことについてはちょっと前に書いた。
そのことを長谷川宏は「役者として矛盾を引き受け、矛盾を生きる」と
加藤は世阿弥の観阿弥と違う工夫・独創について、「題材を大衆的な伝説の主人公(小町や曽我兄弟)ではなく、主として『平家物語』の武将や平安時代の古典の主人公にとり」、「劇的緊張を複数の人間相互の対立にではなく、一人の主人公の『変身』に集中し、内面化した」という。
すなわち現世の人間が亡霊に変身する夢幻能、今僕が最もなじんでいる幽霊の話だ。
能の独創性とは、第一に、その表現の経済。
役者の身ぶりも、言葉も、舞台装置も、およそ芝居の表現手段を最小限度に抑え、観客の想像力の最大限度に訴えて、劇的世界を作りだそうとするのが「能」である。第二は、その伴奏音楽、一管の笛と大小の鼓からなり、複雑なリズムが『間』=沈黙を生かす。
役者の身体的表現の極端な経済には、また極端に禁欲的な音楽が応じる。そして第三に「能」の登場人物は少ない。
こうやって引用してくると能(狂言も)と落語は似ているところが多い。
とくに観客の想像力に訴えて劇的世界を作りだすなんてところが。
リードなどのお散歩グッズを用意しているとすっ飛んできて足もとでインデイアンダンス、嬉しいと踊るのだ。
いっしょに歩いていると、「ああ、これが僕の生活だ」という満ち足りた思いが湧いてくる。
朝のバタバタがさらに大変になるが、続けよう、な、サンチ。
でも前の半分だよ、もっと歩きたいと玄関から入ろうとしない。
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そらぽん
at 2018-08-26 00:31
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「なんかいろいろやる」塾に行ってるタケちゃん、その
足を舐めようとするサンチちゃん、知能派のカモの親子
「能の独創性とは、第一に、その表現の経済」の考察や
美しい月。。 真っ当な素晴らしい世界ですね
足を舐めようとするサンチちゃん、知能派のカモの親子
「能の独創性とは、第一に、その表現の経済」の考察や
美しい月。。 真っ当な素晴らしい世界ですね
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saheizi-inokori at 2018-08-26 06:13
> そらぽんさん、このくらいが身に合って満ち足ります。
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j-garden-hirasato at 2018-08-26 08:33
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maru33340 at 2018-08-26 08:36
いかににも加藤周一らしい明晰な分析に触れて、久しぶりに『日本文学史序説』を読み返したくなりました。
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saheizi-inokori at 2018-08-26 11:43
> j-garden-hirasatoさん、今日は洗濯が遅れて7時過ぎの出発となりました。
家事の順番を変えるかもう少し早起きしなくてはなりません。
家事の順番を変えるかもう少し早起きしなくてはなりません。
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saheizi-inokori at 2018-08-26 11:45
> maru33340さん、私はまだ上をゆっくりゆっくりです。
by saheizi-inokori
| 2018-08-25 11:36
| 今週の1冊、又は2・3冊
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