能はむずかしい? 長谷川宏「能と狂言@日本精神史(下)」&金足農業への提案

腐敗した政治、アマチュアスポーツ、大人たちの生き方に対する見事なアンチテーゼが金足農業野球であり、スーパーポランテイア尾畠さんではないか。
秋田の市民たちが支援金を寄付するために並んでいる、お父さんが一万円札、子供が千円札を嬉しそうに出しているのには涙が出た。
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でもこういうの、一つ間違うと共同体の圧力になりかねないんだな。
「神の国日本」と叫ぶシンキローの言い出した「オリンピックのために国民こぞってサマータイムを実施しよう」なんてのが一番危ない。
地域のために、国のために、やがては命を捧げるべしと、そこまで行った確かな経験がある。
今も隙あらばそうしたいと考えている悪党がいるのだ。
人びとのふるさとを愛するという純な気持ちを逆手にとつて自分たちの権力やフトコロを肥やそうという悪党が。

今日の決勝はいつそのことアンチテーゼを貫いて、吉田君は投げないで、みんなが交代で投げたらどうだろう。
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久しぶりに日本精神史に戻る。

1374年、今熊野における猿楽能で足利将軍義満に見いだされ庇護を受けて能楽を完成させた観阿弥世阿弥の父子は、天と地ほどの身分の差のある将軍との関係をどう維持していくのかという難題を切りぬけていかなければならなかったが、その際自分たちが芸の向上をめざす役者であることを片時も忘れなかった。
将軍やそれを取りまく権力者・上流階級の人と同時に遠国や田舎の人たちも能楽を好み、ともに楽しんだ。
いわば「目利き」と「目利かず」の双方を満足させたのだ。
そのことを長谷川宏は「役者として矛盾を引き受け、矛盾を生きる」と評する。
それは「技と技とをつなぐ空白に役者の心の緊張が外に匂いでる面白さ」が目利きにも目利かずにも面白がられるということだと、かなり難解な説明を(世阿弥も)する。
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(バス停で)

「無心の境地に入って、自分の心を自分にも隠す心境で技と技とのあいだをつながねばならない」と世阿弥は「風姿花伝」にいう。
長谷川はこう説明する。
ことばにするのがむずかしく、達するのもむずかしいその境地が、世阿弥にとって求めずにはいられない魅惑に満ちたものだった。

(世阿弥は)おのれを鞭打って精進するような深刻な求道者ではない。むずかしいからこそかえって稽古におもしろみを感じるような、矛盾を生き甲斐とするような求道者だ。
世阿弥は能の勘所を「花」の一文字であらわす。
どんな花でもいつまでも散らずに残ることはない。散るからこそ、それが咲く季節には珍しいと思うのだ。能の場合も、同じところにとどまっていないのがまず花だと知らねばならない。同じところにとどまらないで別の風体に移るから、珍しいのだ(「風姿花伝」から長谷川訳)。
世阿弥の関心は具体的な声と体の動きを離れることがなかった。舞台で演じられる身体表現としての能をあくまでも考察の対象とし、その埒外に出ることはなかった。

「妙」ということについての世阿弥のことば。
妙とは「たえなり」ということだ。「たえなり」というのは形のない姿のことだ。形のないところに妙体はある。
そもそも能芸においては、妙所なるものは舞曲、歌曲を初めとして、立居振舞のあらゆるところにあるはずだが、改めてそれを指摘しようとすると、どこにもない。この妙所を具えたシテは無上の名人といってよい。とはいえ、生まれつき、初心の頃から妙体の面影を具えた者もある。当人には分からないけれども、目利きには見てとれる。一般の観客の目には、なんとなくおもしろいと見えるにとどまる。妙所というものは、最上のシテにしても、自分の風体にそれが具わっていると知るだけで、いまの芸が妙所だとは分からないはずだ。それと分からないところこそ妙所で会って、少しでも意識したり言ったりできるところは妙所ではないのだ。
そうはいっても、よくよく考えてみるに、妙所といえば、能の芸をきわめ、真の名人となり、至高の境地にあって至難の芸を安らかに演じ、どんな芸をする場合でも無心無風というべき位に達した状態こそが、妙所に近いといえようか。幽玄の風体が円熟の境地に達したとき、妙所に近づいたといえようか。心眼をもって見るべき事柄だ。(「花鏡」長谷川訳)
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やれやれ、なんとまあ!だね。
こんな風に言われると僕のような朴念仁は、能をみる意味がないようにも思える。
少なくとも能を観てきました、と何ごとかを記すこと自体ナンセンスなのかもしれない。

しかし、もう一度よく読むと「(妙所は)一般の観客の目にも、なんとなくおもしろいと見える」とあるじゃないか。
幽玄の風体が妙所に近づくのをなんとなく見ることができるのだ。

能が世阿弥の頃から下層階級にも愛されたことの秘密がここにある。

Commented by テイク25 at 2018-08-21 15:03 x
決勝戦が盛り上がっている頃でしょうか。
故郷が一丸となって応援する。
気持ちは分かるし感動的でもあるけれど、仰るように「共同体の圧力」にもなり兼ねませんね。ちょっと苦手です。
Commented by saheizi-inokori at 2018-08-21 15:08
> テイク25さん、プロ対アマチュア、同じ土俵では勝負にはなりません。
吉田君かわいそうで見ちゃおれん。
Commented by ikuohasegawa at 2018-08-22 17:06
久しぶりに日本精神史を読みかけている自分を思い出しました。
Commented by saheizi-inokori at 2018-08-22 19:24
> ikuohasegawaさん、ゆっくりゆっくりです。加藤周一もおもしろいです。
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by saheizi-inokori | 2018-08-21 11:46 | 今週の1冊、又は2・3冊 | Trackback | Comments(4)

ホン、よしなしごと、食べ物、散歩・・


by saheizi-inokori