唯我独尊の人 フィリップ・ロス「父の遺産」

ベランダは下の庭の木々からむうっとする蒸し暑さが上がってきていたが、外に出ると新涼とまではいえないが、どこか今までの熱気とは違う、早朝らしい空気が流れている。
獣医の言葉もあり、しばらくサンチを散歩に連れて行かなかったが、そろそろ再開するかな。
とすると、いまの朝のバタバタの手順を変えなきゃいけないな。
空き缶を丁寧に積み重ねて捨てている人、どこの誰だろう。
いつもベランダから見下ろすばかりの庭の奥に入ってみた（ここも共用部）。
ひっそりと色を変えつつある紫陽花が幾本か。
脳腫瘍で顔面半分がマヒした８６歳の父を介護する（のだろうな、まだ半分も読んでいない）フイリップ・ロスのノンフィクション。
介護すべき両親を亡くした僕は、作家によって語られる老父の変化や「変わらない」ところを興味深く読む。

自分が持っている、断念する能力、鉄のような克己心が、実はきわめて稀な才能であり、万人に共有されている性質などではないことが、父にはどうしても理解できなかった。自分ほどの社会的ハンディキャップと能力的限界をしょい込んだ人間ができるんなら、誰だってできるはずだと考えてしまうのだ。必要なのは意志の力だけーまるで意志の力が木に生ってでもいるみたいに。自分はこの人間に対して責任があるとなれば、揺るぐことない義侠心でもって相手に尽くす。相手が困っていると思えば（その思い自体はかならずしも間違っていなかった）、父はとことん切実に受け止めた。
だからこそ、いったん相手の行いに何か落度を認めると、それに対しても同じくらい激しく反応してしまうのだ。もともと独断的な性格であるところに加えて、父のなかには、おそろしく原始的な無知が、精錬以前の鉱石のように居座っていた。そのせいで、自分が投げつける叱責がどれほど非生産的で、どれほど相手を苛立たせ、時にはどれほど残酷かが、父にはまるで見えていなかった。

僕も、「鉄のような克己心」などは持ち合わせず意志薄弱であるが、「自分ほどの社会的ハンディキャップと能力的限界をしょい込んだ」人間でもできることは他の誰でもできるはず、できないのはやろうとしないからだ、と思ってきた。
困っている相手に揺るぐことのない義侠心で尽くす、ほどのことはできないが、自分の利益をあと回しにするくらいの気持ちだけは持とうとしてきた。

「独断的」「原始的無知」「無意識で残酷になっている」、僕も思い当たる。
なんとなく僕に似ている（ところもある）病気の父がどのように人生を終え、子供たちにどんな遺産を遺すのか、怖くもあり知りたくもある。
夏休みの寝っ転がり読書にいい本を見つけた。

柴田元幸　訳