沈黙はボケへの道
2018年 06月 15日
目の具合は凸凹のボコが続いて、さらに深まったようだ。
まあ、サンチの顔が見えるからいいか。
「先々の時計になれや小商人」、小沢一郎の散歩といつもの場所の先で逢った。
4時過ぎに又寝をした報いか、「大政治家」を小商人扱いしてすまんこってす。
僕の子供の頃は、毎日やってくる小商人といえば豆腐屋くらいだった。
それにしたって、それほどパンクチュアルではなかったようだ。
むしろ新聞配達の僕の方が時間に厳しかったのじゃないか。
小沢といつもと違うところですれ違って、それかあらぬか人にもほとんど会わない。
人と話をしないで歩いているとあたまが空っぽになったようでなんも考えていない。
こうやってボケていくのかとも思う。
「無念無想」悟りの境地とはボケ・恍惚の境地だったのか。
曽野綾子の「夫の後始末」に
会話は、老化を測る一つの目安だ。会話は自分の中に一つの生き方があることを認識し、相手は相手で、また別の世界に生きていることを意識している時に可能なのである。しかし、老化は、自分の生きている場の自覚を失わせ、相手の生きる姿に興味を失わせる。理屈っぽくてエラソーで曽野節だね。
だから、老人が言葉少なになったら、一つの危険の徴候である。
そのためには、若いうちから、会話のできる人になっておかねばならない。会話は別に高級な内容でなくてもいい。ただ人間はふれ合う時に、その接点に熱を帯び、すべての精神のなめらかさが溢れ出るものなのだ。
少し難しい・おもしろくない会話にも謙虚な姿勢で耳を傾け学ぼうとせずに、スマホばかりやってたり、仲間内の会話ばかりの子供を育てるとその子が老年になって早くボケるということのようだ。
人見知りするサンチも馴れてきたオバサンの手を舐める。
僕もサンチのお風呂のこと(いれない)など話をした。
おかげさまでボケの進行にホンのわずかブレーキがかかった。
梅雨は降らなくちゃね。
これだけのブログを書かれるsaheiziさん、
まだまだボケには程遠いですね。
我が家の100歳超級の義母は、会話も少なくなり
語彙も減ってきているような気がしますが
それはそれなりに、シンプルな世界で充実しているように思えます。
また、若いうちにどんなに社交的で雄弁であったとしても
その経験が、高齢になった時に有効であるかどうかは、
どうも関係無いのではないか、と観察している今日この頃です。
サッチャー政権以後、イギリスの健康保険制度は劣化した
のだろうと思っていましたが、地域で違うみたいですね。
スコットランドでは、まだ無料ですって!
会話はどちらかというと苦手な方で
若いころはもっぱら聞き役でした
オバサンからオバアサンになりかなりおしゃべりになり
聞き役も面白かったなーなんて振り返っています
アツカマシサと妙なジシンみたいなものがそうさせているみたい
若い人たちの変に気を使った会話や議論を避けている感じが
気になります
いろんな意見をぶつけ合って欲しいと思っています
でも一人で黙っていることも好きな私です
Saheiziさんは大丈夫よ
落語聴いて笑ってるもん ははは
笑うってすごく脳にいい刺激というか、心地よい振動を与えると、私は思っています
曽野綾子は、大嫌いです
冷血で愛がない、
つまり子供をただ 自分の芸を仕込んでお行儀よくさせる技術を試す対象としか思っていないかような、つまりサーカスのクマのように、ただ「躾」なければいけないと思ってるかのような。
教育委員会のわたくしお利口です顔の肩書きのみひけらかしている 上から目線のいやらしい女史にしか見えず
そう言うあなたは何様ですか?と
彼女の文章は、私にとってはただの難しい 畏まった字の羅列
どんなに頑張っても、目にも脳にも 入ってこないし、もちろん心には響かない
曽野オバサマは、昔から表現がたいそうで敬遠していました
下の1947年夏の高校生たち! いいな かわいいなー
真っ直ぐ相手を見ている目に、心が揺さぶられました
私のような異郷で一人暮らしは。全く会話がないから早くボケるかな。。
でもこちらの一人暮らしの長いご老人は
会話が少なくても。。
自立心が強くて。ボケる人も少ないのですけど。。
むしろ井戸端会議に終始している方の方が。。危ない。。
ボケてきたことは本人が一番よくわかるつもりですが、きのうはじめではそう言ってるうちはボケていないんだと、冷たいあしらいでした。
冷たくない、励ましかな。
しかし、ところどころ「敬する」だけの言葉もある様に思いました。
私が気弱になったからかな。
日本人は若い時に馬鹿みたいに働き過ぎるのかな、それで虚脱してしまうのかもしれない。
その働きも「自立心」からではなくてヒラメ状態だからなあ。