年年歳歳
2018年 04月 22日
花粉症が風邪よりいいのか。
花粉症だっていろんな症状がでることもあるし、風邪は治るのに花粉症は治らないじゃないか。
だいたい花粉症と風邪との違いはなんだ。
よしなしごとを考えるというより、よしなしごとの方が心にうつりくるのだ。
僕の住んでいるマンションは今は亡き老人の家の跡に、その息子が建てたものだが、かつては庭木もあって、そこにウグイスが棲みついていたと、隣のサラちゃん(シーズー)のママが教えてくれた。
もしかすると、マンションを建てるときに追い出されたウグイスが園芸高校に避難しているのかもしれない。
園芸高校は災害避難場所になっているからね。
いつまで避難させるのだ、と怒りのケキョか、それにしちゃ弱々しくヘタッピイだ。
ちょっと僕の咳に似ている。
老人ばかりになって、あたり一面咳ばかりなんてゾッとしないな。
折節の移り変わりこそ、物毎に哀れなれ。
「物の哀れは、秋こそ勝れ」と、人毎に言ふめれど、それも然(さ)る物にて、今一際、心も浮き立つ物は、春の景色にこそあめれ。鳥の声なども、殊の外に春めきて、長閑なる日影に、垣根の草、萌え出づる頃より、やや春深く、霞み渡りて、花も漸(やうや)う気色立つ程こそ有れ、折しも、雨・風、打ち続きて、心慌たたしく散り過ぎぬ。青葉に成り行くまで、万にただ、心をのみぞ悩ます(「徒然草」第十九段から)
季のめぐりにつれて「もののあはれ」が事ごとに心を染めるが、心を染める色もまた、年ごとにちがっている。心の色もまた移ろうのである。そして一年という月日が過ぎ、またあらたに同じ季がめぐれば、過ぎ去った色がふたたび心を染める。だが、同じと見えても、その色は前の年に心を染めた色と紛らわしいばかりに似てはいても、同じということはない。一年のあいだに経験された「もののあはれ」が、「もののあはれ」をちがったものにしてしまったからである。去年、ともに花をめで、ともに月をながめ飽かした人がもう亡き人になっているとき、あるいは遠国に暮らしているとき、花も月も同じものには決して映じない。そだね。
「紛らわしいばかりに似ている」色のちがいを感じる老人であり続けたい。
遊ぶほけるばかりで今までずっと変わらないこの14年と思い込んでいたのですが。
でも、アベは早くひっこめと思う気持ちは去年も今年も変わりません。
年々歳歳・・・
「年年岁岁花相似 岁岁年年人不同」
授業で教わったことを思い出しました。長い唐詩の一部ですね。
確かに、去年の自分と今年の自分はちがうと思います。人は同じところにとどまっていないし、いられない。今見ている花も去年の花と似ているが別のもの。そういうことなんだなぁ、と思っています(*^^)