花見だ、短編を読もう フラナリー・オコナー「フラナリー・オコナー全短編(上)」
2018年 03月 25日
これから会津に行く。
50年も前にとてもお世話になった人にご無沙汰の限りを尽くして、ようやく娘さんと共に挨拶に行くのだ。
会っても僕のことを分からないかもしれないけれど、会いにいく。
桜よ、散らずに待っていてくれ。
だいぶ前にちょっと紹介したフラナリー・オコナーの短編集を読み終わって何日か過ぎたらもう中味をうまく紹介できない。
人生の怖さ、奥深さみたいなものを絶妙のユーモアで描く。
それとも人生の神秘というものにはユーモアが内在されているのだろうか。
図書館の期限がきたので、メモ代わりに訳者解説から引いておく。
まったく同感だ、といえば不遜かもしれないが。
横山貞子 訳
ちくま文庫
50年も前にとてもお世話になった人にご無沙汰の限りを尽くして、ようやく娘さんと共に挨拶に行くのだ。
会っても僕のことを分からないかもしれないけれど、会いにいく。
桜よ、散らずに待っていてくれ。
人生の怖さ、奥深さみたいなものを絶妙のユーモアで描く。
それとも人生の神秘というものにはユーモアが内在されているのだろうか。
まったく同感だ、といえば不遜かもしれないが。
オコナ―(1925~1964)が作家であることと米国南部に生きるカトリック教徒であることは、分かちがたく結びついている。どうです、読みたくなりませんか。
意見や思想を小説のなかの言葉で語ろうとするのではなくて、あくまでも細部の積み重ねから成る具象的な場面を読者の前に示す。
ある物語についてその主題を論じられる場合、すなわち物語の本体から主題を引き離せるとき、その作品はたいしたものではないと思っていい。意味は、作品の中で体を与えらえていなければならない(作者の論考「物語の意味」から)。
フラナリー・オコナーは、そのときに書いていることそのもののために小説を書いた。まさにいま書いている人物の性格や場面を、目の前に現わすために、書いた。つまり、ものを書くという仕事、その行いに対して、忠実だったということなのだ。だから、その小説の世界は、作者が読者を支配するものでもなければ、読者が作品を押さえこむものでもない状態へ、開かれている。小説とは何か、小説という表現には何ができるのか、短編の名手といわれるオコナ―の作品は、その核心を繰り返しあぶり出す。いくら読んでも、描かれている事柄の全貌がわかることはないので、また読みたくなる。
横山貞子 訳
ちくま文庫
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haru_rara at 2018-03-25 11:22
会津へお越しになるのですね!
どうぞお気をつけてよい旅を。
フラナリー・オコナーの短編、読みたくなりました。
どうぞお気をつけてよい旅を。
フラナリー・オコナーの短編、読みたくなりました。
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j-garden-hirasato at 2018-03-26 06:26
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ikuohasegawa at 2018-03-26 09:01
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buribushi at 2018-03-26 10:35
>どうです
読みたくなりました。
読みたくなりました。
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saheizi-inokori at 2018-03-27 12:24
> haru_raraさん、懐かしい坂下も見て、思い切って行ってよかったです。
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saheizi-inokori at 2018-03-27 12:28
> j-garden-hirasatoさん、素敵も何も、今までの無沙汰が気になって気になって。
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saheizi-inokori at 2018-03-27 12:29
> ikuohasegawaさん、ぜひ!翻訳もいいですよ。
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saheizi-inokori at 2018-03-27 12:29
> buribushiさん、ぜひ!お薦めです。
by saheizi-inokori
| 2018-03-25 11:02
| 今週の1冊、又は2・3冊
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Comments(8)