どう死んでいくか 映画「ラッキー」 附・渡辺京二「バテレンの世紀」
2018年 03月 21日
きのう、病院の帰りに、たまにはうまい蕎麦を食おうと世田谷通りをバス窓からチエックしたけれど、見落としたらしく渋谷まで出てしまい、勢いで見た映画(昼飯は抜き)。
ある日、家でぶっ倒れるが、医者は「どこも悪くない、今まで生きてきたのだから煙草は止めない方がいい、年を取ればみんな死ぬ」という、90歳。
死ぬことが怖くなって、、。
偏屈だし、なんとなく僕に似ているところもあるが、違うところはみんなに愛されているところ。
愛されているのは、愛しているからだ。
真剣に煙草を止めてくれて、倒れたと聞くとスタッフを呼び集めて話を訊いてくれるカフェのマスターもいる。
一人だということと孤独だということは違う家族はいないけれど、クロスワードのヒントをもらったり、幼い頃の思い出を語る電話相手もいる。
食料品店の女主人は息子の誕生日パーテイに呼んでくれる。
庭で開かれたパーテイのマリアッチ、その誕生祝いの合唱、つられてラッキーが歌う「お前を取り戻したい、今は素直になったし、謝るのもうまくなった」という歌のすばらしさ。
スタントンの人生になぞらえて描いたラブレターともいえるジョン・キャロル・リンチの初監督作品だそうだ。
エンドロールで「月に輝く奇蹟のカウボーイ・ハリー・デイーン・スタントン」とうたうウエスタンが流れる。
人生の相棒だったリクガメに逃げられて、悲しんだあげく、ある悟りに達する友人を映画監督のデヴィッド・リンチが渋く演じる。
それでお前はなにか変わるのか?、、、死んでいるお前は。ウンガッツ、ナッシング、空、、そうと知ったら?
スマイルだ。
禅的カウボーイの人生終末を相手取った西部劇、身につまされ感横溢。
今日が図書館への返還期限だ。
面白かった、だけではなんのこっちゃだから、メモ代わりに最後の文章を引いておく。
17世紀のケンベルから19世紀初頭のシーボルトに至るまで、出島蘭館員は、徳川期日本の文明を高く評価しており、決してヨーロッパ文明より劣等とは見ていなかった。ところが、19世紀中葉に至って重要な変化が生じた。ペリーによる開国後来日した欧米人は、独特の美点を認めはしたが、文明の段階としては遅れたもの、劣ったものと日本をみなしたのである。
ファ―スト・コンタクト(1543年のポルトガル人の種子島漂着)は西洋優位が成立していない時代の出来事だった。日本社会はそれによって根底から揺すぶられることはなかった。しかしキリシタン騒動が明らかにしたように、彼我の思考様式の違いの問題は残った。それは明治から今日まで、我々が意識せざるをえない課題として、いまなお存在し続けている。
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j-garden-hirasato at 2018-03-21 13:48
ホームシアターみたいな映画館ですね。
それが魅力なんでしょうね。
自分はバリバリ気合が入る映画館の方が、
見た気になれます。
それが魅力なんでしょうね。
自分はバリバリ気合が入る映画館の方が、
見た気になれます。
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saheizi-inokori at 2018-03-21 17:13
> j-garden-hirasatoさん、たまにはこういう映画館でくつろぎたくなります。
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pallet-sorairo at 2018-03-21 21:08
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saheizi-inokori at 2018-03-21 21:52
> pallet-sorairoさん、ラッキーな人生を送ったラッキー、あんなふうに達観出来たらいいなと思いました。
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urontei at 2018-03-21 22:26
こういう老優を主役に据えて、ちゃんと映画を撮ってみせる。ハリウッドの懐の深さを感じさせる一本ですね。
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saheizi-inokori at 2018-03-21 22:51
uronteiさん、ほんとにそうですね。
しかもありきたりな死を前にした老人の描き方ではないのですから。
しかもありきたりな死を前にした老人の描き方ではないのですから。
by saheizi-inokori
| 2018-03-21 11:33
| 映画
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Comments(6)