ポルトガルは遠きにありて思うもの 渡辺京二「バテレンの世紀」
2018年 03月 14日
数年前の頭がどうかなってしまって無気力になるような、テイッシュペーパーがしょっちゅう亡くなる状態よりは軽症なのがまだありがたい、それだけ免疫力も低下しているのだろうが。
帰宅すると帽子で服をパタパタ、サンチも頭からパタパタ、サンチは遊んでもらっていると思っているのか嫌がらない。
直しもけっこう入費がいりそうなので、気分転換も兼ねて靴を新調した。
何足もためし履きをするのが面倒で靴を買うのは好きじゃないのだが、駒沢の交差点で信号待ちをしていたら、ふとその気になって目の前の靴やに入って、履いてみたら一発でいい感じ。
でも、何ごとも慎重をもってなる拙のこと、写真を撮って「ちょっと考えるね」と帰宅、カミさんが、ダサい、といわないか感想を聞いてからにする。
いいんじゃない、と言ったのが右側、それなのに、翌日自由ヶ丘に散歩してABCマートで、「念のために」ROCKPORTを試してみたら、こっちの方が幅があっていい。
今、履き潰しつつある茶のもROCKPORTで、愛用して長い。
というわけで、こんどは独断で即決。
きのうはさっそく二子玉川まで履いてみて、なかなかよろしかった。
450頁という大著、散歩に携えてカフエで読むのにはちと手ごたえがあって、まだ半分しか読めない。
1543年三人のポルトガル人が種子島に漂着してから1639年、いわゆる「鎖国令」が完成するまでの約一世紀における西洋と日本の交渉について人物本位で物語のように書いている。
「なぜポルトガルだったのか」だけでも、ポルトガル・アヴィス朝の成立(1385年)から説き起こす。
一般の情況を見ると、追放令下にもかかわらず、社会の雰囲気はむしろキリシタンに好意的だった。まず挙げねばならぬのは、ポルトガル風ないしキリシタン風のファションの流行である。これはヴァリニャーノ一行の入京をきっかけとして始まったらしい。ロザリオや十字架を首に吊るすのが流行となった。そんな恰好で街を歩くだけでなく、秀吉や秀次の前にも現れる。ロザリオや十字架は高値で取り引きされ、やがて京都で模造品が作られるようになった。ポルトガル風の服装も喜ばれた。秀吉自身バテレンの肉食を咎めながらも、ワインや牛肉を嗜んだという。
日本人のDNAにはポルトガルの風が吹いているようだ。
上はママ手製の「シソ入りソーセージ」。
温かいなかを歩いたせいか、はじめのビール(とりあえず、ではなく。いつもは最初から燗酒)がとても甘露なりき。
私はsaheiziさんが購入した左のが好きです 笑
足の感じばかりは、自分でしかわかりませんからね
、、そう言えばファビオも昔良く何か買わなきゃいけない時は付いて来てくれと言った
男の人って意外と相方のジャッジが気になるのね、、
ふふふ かわいいですね
自身の好き嫌いははっきりしていて崩しがたい。だけど、妻の提案はいつも思いがけない発想で、全く新しい選択肢を突きつけられる感じ。結果、違った自分が誕生するのです。「固執しない」これは私のファッションイノベーション法です。初め居心地悪く感じても、違った世界に踏み込んだような不思議な成就感がついてくるのです。冒険っておもしろい。
>日本人のDNAにはポルトガルの風が吹いているようだ。
天ぷらや金平糖が思い出されますが、ポルトガルのナザレで店の外で、あるいは路地裏で、おばあさんたちが炭火みたいので、イワシを焼いていた風景が忘れられません。
そのお店でひとり3尾の大きなイワシの塩焼きが出て1尾しか食べられませんでした。ポルトワインの工場も思い出しますが、何といってもイワシです。当時日本ではイワシが獲れなくてあまりなかったからです。